舎人親王
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舎人親王(とねりしんのう、天武5年(676年) - 天平7年11月14日(735年12月2日))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。舎人皇子(とねりのみこ)とも記される。父は第40代天皇の天武天皇で第3皇子[1]。第47代天皇・淳仁天皇の実父。天武天皇の諸皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代初期に長屋王とともに皇親政治として権勢を振るう。『日本書紀』の編集も総裁した。子孫の清原氏は高市皇子裔の高階氏と共に、天武系後裔氏族として長く血脈が続いた。
生涯[編集]
父は天武天皇。母は妃で第38代天皇・天智天皇の娘・新田部皇女[1]。
持統9年(695年)に浄広弐の位を授けられ、養老2年(718年)に二品から一品に昇叙する[1]。元正天皇から聖武天皇の時代にかけて年長の皇族としてその存在は重きをなし、勅命により『日本書紀』の編纂を主宰し、養老4年(720年)5月に完成させて奏上する[1]。同年の8月に藤原不比等が死去して政権に動揺が走ると、すぐに知太政官事に任命されて政界の動揺を抑える重しを成した[1]。
天平7年(735年)11月14日、疫病が流行する中で自らも疫病に倒れて死去した[1]。死後、太政大臣を追贈された[1]。『公卿補任』によると年60と伝えている。
後に実子の淳仁天皇が即位すると、その実父であることから崇道尽敬皇帝(すどうじんぎょうこうてい)と諡号を追贈された[1]。また、文化人として『万葉集』にも3首が載せられている[1]。
舎人親王の遺児は淳仁天皇をはじめ、政界の権力抗争や皇位継承争いに巻き込まれて不幸な運命をたどる者が多かった[2]。