崇峻天皇
崇峻天皇(すしゅんてんのう、欽明14年(553年?) - 崇峻5年11月3日(592年12月12日?))は、日本の第32代天皇(在位:用明2年8月2日(587年9月9日?) - 崇峻5年11月3日(592年12月12日?))。諱は泊瀬部(はつせべ)、即位前は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と称した。『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある[1]。
生涯[編集]
父は第29代天皇・欽明天皇で第12皇子。母は蘇我稲目の女・小姉君。第30代天皇の敏達天皇、第31代天皇の用明天皇、第33代天皇の推古天皇の異母弟にあたる。
用明天皇の時代、朝廷においては敏達天皇の皇子である竹田皇子を推す蘇我馬子・聖徳太子一派、欽明天皇の皇子である穴穂部皇子を推す物部守屋・中臣勝海一派、敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子を推す一派に分かれて抗争していた。用明2年(587年)に重病に倒れた用明天皇は仏法に帰依したいと群臣に諮り、朝廷での会議では物部守屋一派が激しく反対して賛成の蘇我馬子と激しく対立する。守屋は激しく反対するが、会議の席上で馬子が自らの帰路を襲おうとしている情報を得て自分の屋敷に退いて兵力を集め、中臣勝海もこれに従って彦人大兄皇子と竹田皇子の像を造って呪詛を行なった。しかし勝海は蘇我馬子らによって暗殺された。
用明天皇が崩御すると、馬子は穴穂部皇子と皇子と親しい関係にあった宅部皇子を殺害し、さらに群臣に対して物部守屋征伐を宣言する。この時、泊瀬部皇子は竹田皇子、聖徳太子らと共に軍勢を率いて物部守屋討伐に参加した。守屋も激しく抵抗して蘇我馬子の軍勢を3度も追い返すなど善戦したが、守屋が木の上から指揮をとっていたところを敵に射られて射殺されるに及び、物部軍は崩れて物部氏は滅んだ。
系譜[編集]
- 妃:小手子(大伴糠手子の女)
- 嬪:河上娘(蘇我馬子宿禰の女)
- 夫人:布都姫(ふつひめ、物部守屋の妹。先代旧事本紀に拠る)
- 母不明
- 定世親王(さだよのしんのう、蜂子皇子の兄。近江国中原氏の祖先だという)
脚注[編集]
参考文献[編集]
歴代の天皇陛下の一覧 |