仁徳天皇
ナビゲーションに移動
検索に移動
仁徳天皇(にんとくてんのう 257年(神功皇后摂政57年) - 399年1月16日(仁徳天皇41年)は第16代天皇[1]。
概要[編集]
応神天皇の第四皇子。母は五百城入皇子[読 1]の孫にあたる応神天皇の皇后仲姫命[読 2]であり、和諡は大鷦鷯尊[読 3]といった[2]。
応神天皇は菟道稚郎子[読 4]に皇位を継承するつもりであったが、菟道稚郎子が幼い頃から聡明で広い心の持ち主であり世評も高い大鷦鷯尊に皇位を譲ることを主張して即位を辞退した。大鷦鷯尊も謙遜の美徳を示したため三年間皇位が空白になった[2]。その後、菟道稚郎子が自死したのか単に夭逝したのかは日本書紀と古事記では記載が異なるが[注 1]、結果として大鷦鷯尊が即位することになる[3]。
仁徳天皇は皇后に磐之媛命[読 5]を迎え、大兄去来穂別尊[読 6]のちの履中天皇、住吉仲皇子[読 7]、瑞歯別尊[読 8]のちの反正天皇、雄朝津間稚子宿禰尊[読 9]のちの允恭天皇をもうけた。
仁徳天皇は都を浪速高津宮(大阪市中央区)に遷すも、質素倹約を旨とし民衆に苦労をかけず、民衆の生活の充実を願ったとされる[3]。
仁徳四年の春、天皇が高いところから周囲を見渡したところ、どの人家からも煙が上がる様子が見られないことから、民衆の生活が困窮していることを理解し、年特天皇四年から三年間にわたって課税をやめる命令を下した。民衆の幸せを第一に願う仁徳天皇の象徴的な行動であり、聖帝としての事績の一番にあげられている[1][4]。
倭の五王のうち「讚」または「珍」とする説がある[1]。
脚注[編集]
読み方[編集]
注釈[編集]
- ↑ 古事記では夭逝、日本書紀では自死と記載されている。
ソース[編集]
参考・引用等[編集]
- 尾崎克之 栗原加奈夫 岡林秀明 常井宏平 『完全保存版 天皇125代』2128、宝島社〈別冊宝島〉、2014年2月23日、1st。ISBN 978-4-8002-2156-8。
- 笠原秀彦 『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』1617、中央公論社〈中公新書〉、2013年5月10日、27th。ISBN 4-12-101617-3。
- 竹田恒泰 『現代語古事記 ポケット版』 学研プラス、2016年6月28日 発行、1st。ISBN 978-4-05-406454-6。
歴代の天皇陛下の一覧 |