後桃園天皇
後桃園天皇(ごももぞのてんのう、宝暦8年7月2日(1758年8月5日) - 安永8年10月29日(1779年12月6日))は、日本の第118代天皇(在位:明和7年4月28日(1770年5月23日) - 安永8年11月9日(1779年12月16日))。諱は英仁(ひでひと)[1]。なお、急逝による後継の準備のため、実際よりも後の日付で崩御が発表されており、在位日が崩御後も続いている。
生涯[編集]
父は第116代天皇・桃園天皇で第1皇子[1]。母は関白太政大臣の一条兼香の娘で桃園女御の恭礼門院・藤原富子。同母弟に伏見宮貞行親王がいる。
父が崩御した時にはわずか5歳の幼児だったため、伯母(父の異母姉)にあたる後桜町天皇が中継ぎとして即位し、英仁親王が13歳に即位した明和7年(1770年)に譲位されて即位して後桃園天皇となった[1]。即位の年とその翌年は全国的に大旱魃となり、江戸では大火に見舞われ、その後も水害に見舞われるなど天災が相次いだ[1]。このため明和9年(1772年)には「迷惑年(めいわくねん)」と読める事から、安永への改元が実施された[1]。
しかし改元後も全国各地で百姓一揆や打ちこわしが相次ぎ、江戸幕府では経済活動の積極化から賄賂や腐敗も相次いだ[1]。この天皇の時代は徳川家治の下で田沼意次が老中として政治の実権を掌握していた時代であり、意次自身は朝廷には寛容な態度で臨んだが、安永3年(1774年)に宮中でも不正が発覚したので幕府は介入し、朝臣である田村広教らが処刑されている[1]。天皇自身は寛容な処分を求めたが、意次はさすがに拒否したという[2]。この不正事件で4人が死罪、5人が遠島流罪、30人以上の賄方役人が解雇された[2](安永の御所騒動)。
天皇は病弱で在位10年、奇しくも父帝と同じ22歳で崩御した[2]。子供は崩御する年に生まれた皇女・欣子内親王のみだったため、閑院宮典仁親王の皇子である祐宮が光格天皇として後桃園天皇の養子となって跡を継いだ[2]。なお、後桃園天皇の皇女・欣子内親王は光格天皇の中宮となった。
後桃園天皇は日記を8冊遺している[2]。
系譜[編集]
在位中の元号[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
歴代の天皇陛下の一覧 |