桃園天皇
桃園天皇(ももぞのてんのう、寛保元年2月29日(1741年4月14日) - 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))は、日本の第116代天皇(在位:延享4年5月2日(1747年6月9日)- 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))。幼名を八穂宮(やほのみや)または茶地宮(さちのみや)、諱を遐仁(とおひと)[1]。
生涯[編集]
父は第115代天皇・桜町天皇で第1皇子。生母は権大納言・姉小路実武の娘で典侍の姉小路定子(開明門院)。父の嫡妻・二条舎子(青綺門院)の実子としてその御所で育てられた。7歳の時に父帝から譲位されて即位する[1]。
幼少の頃から学問を好み、高邁さは後光明天皇に並ぶと評され、漢学に対する造詣が深く、蹴鞠の作法はひときわ優美であった[1]。近臣の徳大寺公城や久我敏通らが国学者で神道家で公城の家臣である竹内式部から垂加神道と軍学を学んでいることを知り、天皇も自らこの講義を受けて熱中するようになったという[1]。しかし、江戸幕府から熱烈な尊王思想や天皇崇拝は禁じられており、関白の近衛内前や養母の青綺門院からはたびたび諫言されて講義を中止せざるを得ず、その余波から宝暦8年(1758年)には朝廷内における若手の尊王論者が大量処分されるという宝暦事件も発生している[1][2]。天皇は事件後、「神代より世世にかはらで君と臣の道すなほなる国はわがくに」と歌を詠んで朝廷と幕府の関係が変わらないように願ったという[2]。
宝暦12年(1762年)7月12日、脚気衝心により22歳の若さで崩御した[2]。子に英仁親王(のちの後桃園天皇)があったが、崩御した際はまだ5歳の幼児のため、桃園天皇の1歳違いの異母姉である智子内親王(桜町天皇の第2皇女)が後桜町天皇として跡を継ぐことになった[3]。
系譜[編集]
在位中の元号[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
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