後桜町天皇
後桜町天皇(ごさくらまちてんのう、元文5年8月3日(1740年9月23日) - 文化10年閏11月2日(1813年12月24日))は、日本の第117代天皇(在位:宝暦12年7月27日(1762年9月15日)- 明和7年4月28日(1770年5月23日))。江戸時代、また上皇明仁までで最後の女性天皇である。幼名を以茶宮(いさのみや)・緋宮(あけのみや)、諱を智子(としこ)[1]という。
生涯[編集]
父は第115代天皇の桜町天皇で第2皇女。母は関白で左大臣であった二条吉忠の娘で桜町女御の藤原舎子(青綺門院)[2]。姉に早世した盛子内親王、異母弟に第116代天皇の桃園天皇がいる。
桃園天皇とは1歳違いの異母姉であり、宝暦12年(1762年)に桃園天皇が22歳で早世した際、儲君である英仁親王(のちの後桃園天皇)は5歳と幼少であったため、智子内親王が英仁親王が成長するまでの中継ぎとして即位することになり、天皇になった[2]。江戸時代前期の明正天皇以来、119年ぶりの女帝の誕生であった[2]。とはいえ明正天皇の時は父帝の後水尾天皇が上皇として存在していたのに対し、後桜町天皇の場合は上皇となる存在や父親はおらず、全て一人で決めていく立場にあったのが以前と異なっている[2]。
後桜町天皇は円満な性格の持ち主で賢明でもあり、天皇の職務を自ら行ないながら甥の英仁親王を我が子のように慈しんで養育したという[2]。在位9年後の明和7年(1770年)に予定通り、英仁親王に譲位して自らは上皇になった[2]。しかし即位して天皇となった後桃園天皇は後継者のないまま22歳の若さで崩御し、皇位は傍流である閑院宮典仁親王の皇子である祐宮が光格天皇として継承することになった[2][3]。賢明な後桜町上皇は傍流の光格天皇の養育・補導にもよく務めたと言われている[3]。
寛政の改革における尊号事件で光格天皇と江戸幕府の老中首座・松平定信が対立すると、上皇は光格天皇に対して「御代長久が第一の孝行である」として対立を回避するように諫めたという[3]。なお、上皇は文筆に優れており、宸記、宸翰、御詠草など多数の貴重な史料を残している[3]。
文化10年(1813年)11月2日に崩御した。享年74[2]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
歴代の天皇陛下の一覧 |