平城天皇
平城天皇(へいぜいてんのう、宝亀5年8月15日(774年9月25日) - 弘仁15年7月7日(824年8月5日))は、日本の第51代天皇(在位:延暦25年3月17日(806年4月9日) - 大同4年4月1日(809年5月18日))。小殿(おて)親王、後に安殿親王(あてのみこ)。父は第50代天皇の桓武天皇で第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に第52代天皇の嵯峨天皇。異母弟に第53代天皇の淳和天皇。
生涯[編集]
最初、桓武天皇の皇太子は早良親王であったが、藤原種継の暗殺事件により早良親王が廃太子になったので、延暦4年(785年)に12歳で皇太子に立てられた[1]。延暦25年(806年)に桓武天皇が崩御したので、33歳で天皇に即位した[1]。この際に同母弟の神野親王(のちの嵯峨天皇)を皇太弟に立てた[1][2]。また元号を大同と改め、延暦13年(794年)に亡くなった妃の藤原帯子に皇后の称号を追贈した[2]。
桓武天皇の時代は平安京など新都の建設や蝦夷討伐などで国家財政が悪化しており、平城天皇はこれを考えて緊縮財政と民衆の負担軽減を基礎にした政策を打ち出す[1]。具体的には冗官と言われた不要の官職と目される参議の廃止や官司の整理統合、官人の適切な配置と下級官吏の登用優遇などである[2][1]。地方行政では畿内および七道に監察使を設置して地方官の監督に力を注ぎ[2]、令制再建に志向する政策を次々に打ち出した[1]。
しかし天皇の時代は藤原氏内部の抗争をはじめとした政争などが相次ぎ、また天皇は優秀でも病弱で線が細かったとされ、そのために各氏の政争を抑えることができなかった[1]。即位の翌年には藤原南家の藤原吉子を母とする皇弟の伊予親王が謀反の嫌疑をかけられて捕縛され、母の吉子ともども幽閉先の川原寺(現在の奈良県明日香村)で服毒自殺させられた[2][3][1]。これに連座して大納言の藤原雄友や中納言の藤原乙叡らも失脚した[4]。
平城天皇は皇太子だった頃に父の寵臣であった藤原種継の娘・藤原薬子の娘を後宮に迎えていたが、桓武天皇の存命中に母親の薬子がよりによって当時皇太子だった平城天皇と男女の関係にあるという醜聞が生じ、桓武天皇の怒りを買って薬子は追放処分を受けた[4]。しかし桓武天皇が崩御すると平城天皇から呼び戻され、後宮を束ねる尚侍に一気に昇進を遂げた[4]。このため、一気に藤原式家の権勢が強大になり、薬子は天皇の威を借りて傍若無人な振る舞いが多くなり、兄の藤原仲成と共に思うまま権勢を振るった[4]。
しかし天皇は病弱なため、在位3年後の大同4年(809年)に神野親王に譲位して上皇となった[4][5]。神野親王は嵯峨天皇となるが、上皇となった平城上皇は健康を回復して国政への復帰を図るようになった[5]。しかも官人の半ばを率いて旧都の平城京に遷ったりするなど、嵯峨天皇と対立の様相を見せ始める[5]。後ろ盾の平城天皇が譲位したことで権勢を失いつつあった藤原薬子と仲成は、平城上皇の重祚を計画する。しかも平城京に宮殿を新造したりして「二所朝廷」といわれる分裂状態にまで陥るようになった[5]。この対立は弘仁元年(810年)9月に平城上皇による平城京遷都の命令が出たのを機に頂点に達し、嵯峨天皇は藤原仲成の捕縛と藤原薬子の官位剥奪を命じるに至る[5]。薬子は自殺に追い込まれ、仲成は弓で射殺され、平城上皇は東国脱出を図るが天皇に属した坂上田村麻呂の軍勢により制圧されて捕縛され、強制的に剃髪させられて法皇となった[5]。また、嵯峨天皇の皇太子にされていた平城法皇の第3皇子であある高丘親王も廃された(藤原薬子の変)[5]。
平城法皇は近臣も取り上げられて追放とされ、その身柄は平城京に半ば幽閉のように置かれたまま、弘仁15年(824年)7月に崩御した[5]。享年51。
平城天皇は詩文に優れ、『淩雲集』や『古今集』にその作品が収められている[3]。
后妃・皇子女[編集]
- 東宮妃・贈皇后:藤原帯子(?-794) - 藤原百川女
- 妃:朝原内親王(779-817) - 桓武天皇皇女
- 妃:大宅内親王(?-849) - 桓武天皇皇女
- 妃:甘南美内親王(800-817) - 桓武天皇皇女
- 尚侍:藤原薬子(?-810) - 藤原種継女
- 東宮妃:藤原縄主娘 - 母は藤原薬子
- 宮人:伊勢継子(772-812) - 伊勢老人女
- 宮人:葛井藤子 - 葛井道依女
- 宮人:紀魚員 - 紀木津魚女
- 叡奴内親王(?-835)
阿保親王の第5子が在原業平で、平城天皇には孫にあたる。
脚注[編集]
参考文献[編集]
歴代の天皇陛下の一覧 |