二条天皇
二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日) - 永万元年7月28日(1165年9月5日))は、日本の第78代天皇(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日) - 永万元年6月25日(1165年8月3日))。諱は守仁(もりひと)[1]。
生涯[編集]
父は後白河天皇で第1皇子[1][2]。母は大炊御門経実の娘で源有仁の養女(猶子)・贈皇太后懿子[1][2]。
父の雅仁親王(後の後白河天皇)はもともと皇位継承候補から除外されていたので、9歳の時に仁和寺に入っていた。ところが近衛天皇が後継者無く崩御し、次の天皇に崇徳上皇の息子の重仁親王か、後白河天皇(当時は雅仁親王)の息子の守仁親王にするかで祖父の鳥羽法皇は迷う。鳥羽法皇は守仁親王の即位を望んでいたが、崇徳上皇との対立やまだ幼い守仁親王を立てた場合に近衛天皇と同じように夭逝する可能性を恐れて、守仁親王が成長するまでの繋ぎとして雅仁親王を立てた。この際に守仁親王は鳥羽法皇の寵姫である美福門院の養子とされ、守仁は親王・皇太子に立てられた[1]。
保元の乱から2年後の保元3年(1158年)、後白河天皇の譲位を受けて16歳で即位する[1]。しかし政治の実権は上皇となった後白河が掌握しており、二条天皇と側近らは後白河院政と対立する。九条兼実の『玉葉』によると、「二条天皇は賢主であったが孝道に欠けている」と評しており、後白河上皇と二条天皇は実権をめぐり激しく対立していた模様である。これには二条天皇の一本気な性格と後白河上皇の奔放な性格の違いも一因していると言われている[1]。
この対立も一因して即位の翌年には平治の乱が起こり、反乱を起こした藤原信頼と源義朝によって二条天皇は大内裏に幽閉された[3]。『平時物語絵巻』によると二条天皇はこの時、平清盛の手引きで女装して牛車に乗って大内裏から脱出して平清盛の六波羅屋敷に移った。このため、二条天皇は藤原信頼・源義朝らを賊軍として討伐し、戦後に平清盛が権力者として栄華を極めることになった。
しかし平治の乱後も後白河上皇との対立は続き、長寛2年(1164年)に上皇の宿願であった千手観音を千体安置する堂が建立され、落慶の供養が行なわれる中で二条天皇は全く無視して行幸すらしなかったという[3]。このため後白河上皇は「なんの憎さで、なんの恨みで」と悲しみ涙を流したという[3]。
永万元年(1165年)6月25日、二条天皇は病気により皇太子の順仁親王に譲位し、順仁親王は六条天皇となる[4]。二条上皇は譲位してから間もなくの7月28日に崩御した[4]。享年23[4][2]。陵墓は京都府京都市上京区平野八丁柳町の香隆寺陵にある[2]。
后妃・皇子女[編集]
- 中宮:姝子内親王(高松院)(1141-1176) - 鳥羽天皇皇女
- 中宮:藤原育子(1146-1173) - 徳大寺実能女、藤原忠通養女
- 太皇太后:藤原多子(1140-1201) - 徳大寺公能女、藤原頼長養女、元近衛天皇皇后
- 督殿(督の君) - 源忠房女、のち藤原成親室[5]
- 春日殿 - 大外記・中原師元女
- 右馬助・源光成女
- 第一皇子: 尊恵法親王(1164-1192) - 高松院猶子、大僧都
- 大蔵大輔・伊岐致遠女[6]
- 第二皇子: 順仁親王(六条天皇)(1164-1176) - 育子猶子
- 源忠房女(督殿の妹)
- 第三皇子: 真恵
脚注[編集]
- ↑ a b c d e f 高森明勅『歴代天皇事典』(PHP文庫、2006年10月)、P196
- ↑ a b c d 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P460
- ↑ a b c 高森明勅『歴代天皇事典』(PHP文庫、2006年10月)、P197
- ↑ a b c 高森明勅『歴代天皇事典』(PHP文庫、2006年10月)、P198
- ↑ 内裏女房。『今鏡』むらかみの源氏 藻塩の煙 において「二条のみかどの御時、ちかくさぶらひ給ひて督の君とかきこえ給ひしはことの外にときめき給ふときこえ給ひしかば、尚侍になり給へりしにやありけん。ただまた督の殿など申すにや。よくもえうけ給はりさだめざりき」とある。尚侍への任官や叙位は確認できない。
- ↑ 出自については、六条天皇の項目参照。
参考文献[編集]
歴代の天皇陛下の一覧 |