徳川忠長
徳川 忠長 とくがわ ただなが | |||||||||||||||||||||||||||||||
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徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。通称は駿河大納言(するがだいなごん)。徳川家康の孫、徳川秀忠の3男、徳川家光の同母弟にあたる。
生涯[編集]
幼少期[編集]
父は江戸幕府の第2代将軍・徳川秀忠。母は御台所の浅井長政の娘・崇源院。幼名は国松。Wikipediaでは誕生日が記されていないが、5月7日である。
同母兄の家光は病弱だったことから、身体が壮健で活発な性格だった忠長が両親の愛情を受け、幕臣などもそれを見て忠長を後継者と見て出仕する者が相次いだという。『東照大権現祝詞』によると、「そうげんいん(崇源院)様、君(家光)をにくませられ、あしくおぼしめすにつき、たいとくいん(台徳院)様も、おなし御事に、二しん(親)ともににくませられ、すでに、そし(庶子。この場合は忠長のこと)、そうりやう(惣領)をつがせられへきていに」とある。また、同書には忠長自身も「君(家光)にぎゃく(逆)なるむねをもよほし、そし(庶子)、そうりやう(惣領)をつぎたまふべきとたく」という思いだったという。
しかし、祖父の家康から嫡庶の別を糾され、後継者の地位は家光に指名された。ただ、家光と忠長の当時の年齢から、2人が互いに争ったとは思えず、恐らく周囲の人間により派閥が形成されて争ったのだと推定される。ただ、寛永16年(1639年)に家光の乳母として活躍した春日局直筆といわれる記録には、家光と忠長の相続問題についてが克明に記されている。春日局は家光を後継者にするため、家康に働きかけた人物である。
将軍の子として[編集]
将軍になれなかった忠長であるが、元和4年(1618年)12月に父から甲斐国を与えられ、わずか13歳で国持大名となった。元和6年(1620年)に元服する。諱の忠長は父の秀忠からの偏諱である。その後も従四位下参議に左中将、上野介を兼ねて叙任。元和8年(1622年)には信濃小諸7万石を加増。元和9年(1623年)には従三位権中納言に叙任。さらに織田信良の娘[1]と結婚した。当時の織田氏は小大名であり、将軍の同母弟の正妻の家格としては釣り合わないが、これは恐らく織田家の血を引く崇源院[2]の計らいがあったのではないかと推定される。
寛永元年(1624年)に駿河・遠江2か国を与えられ、55万石の大大名となり、居城を駿府城に構えたことから、駿府藩主となる。寛永3年(1626年)8月19日に従二位権大納言に叙任し、これより駿河大納言と呼ばれるようになった。
このように将軍にはなれなかったが、その藩屏としてかなり官位や所領では優遇されており、その待遇は御三家を上回るものであった。
改易と最期[編集]
しかし、将軍になれなかった経緯からか、忠長の所業は次第に乱れていった。寛永3年(1626年)7月に家光が上洛する際には大井川に舟橋を架けて連台越の不便を解消したりしている。しかし、以下のような乱行が伝わっている。
- 浅間神社の神獣とされていた猿が民衆を苦しめていたのを理由に捕殺した。
- 猿狩りの帰途において自らが乗っていた駕籠の中から駕籠かきを刀で突き殺した。
- 酒を飲んでは酒乱で暴れ、家臣数十名を理由も無く手打ちにした。
- 侍女を手籠めにしたり乱暴した。
ただ、忠長の乱行については事実かどうか疑問視される。忠長には以下のような話が『千とせのまつ』に伝わっている。
家光と忠長の異母弟・保科正之は崇源院の悋気を恐れた秀忠が、密かに信濃高遠藩主の保科正光に預けて養育させていた。正之が19歳になった時、養父の正光は正之を秀忠に認知してほしいと願い、その仲介を駿府城の忠長に求めた。寛永6年(1629年)9月、正光は忠長から駿府城に来るように命を受け、正之を伴って赴いた。そして正光と正之が駿府城に登城する際、忠長は自分の家臣に理由も告げずに出迎え不要と客人に対する接触を禁じた。家臣らは誰が来るのか、なぜこのようなことをするのかわからなかった。客人が帰る際に忠長は家臣全員に見送るように命じた。客人が帰ると、忠長は近臣たちに「今日の客人は保科正之という。信濃高遠の田舎育ちで城内の作法も知らないと思い、お前たちに不調法なところを見せないほうが良いと思って退けていたのだ。しかし不調法どころかしっかりしたもので、そこで帰りにはお前たちにも送らせたのである」と言った。忠長は正之を気に入り、徳川家の紋が入った祖父・家康の御召料であった小袖などを送り、さらに秀忠への取り成しも約束した。
『千とせのまつ』は保科正之を名君としてその行実を記したものであり、信頼性は高い。創作としても、後年に秀忠に処罰され、家光に改易されるような忠長をこんな風に描くとは思えないので、事実の可能性が高い。この際の忠長の対応にはかなり行き届いた配慮が見られるのである。
また、乱行ではないが、以下のような問題もあった。
- 『千とせのまつ』にある忠長と正之の話は確かに美談だが、忠長が家康の小袖を与えた、というのは問題になる。家康の小袖は大変貴重なもので、将軍でもない立場の徳川一族が無許可で他者に与えられるものではない。
- 『古老雑談』によると、江戸から帰国する西国の諸大名が、将軍の同母弟である忠長に御機嫌伺いのため、駿府城に伺候した。忠長は彼らを懇ろにもてなし、「江戸暮らしはさぞ疲れたであろう。ここは江戸とは違う。何の気兼ねもいらないから心置きなくくつろぐように」と述べ、2、3日も逗留させ、さらに諸大名から献上物を受け取り、自らは彼らに道具や馬を下賜した、とある。
これらの行為は大名としての分を超えている。やっていることは将軍そのものであり、忠長にその野心が無いとしても問題になる。ようやく幕府機構が整備されつつあり、将軍権力が確立されようとしていた大事な時期にこの行為はまずく、いくら忠長が将軍の息子で同母弟であろうと許されることではなかったかもしれない。
乱行の数々から、寛永8年(1631年)6月に忠長は大御所の父・秀忠の命令を受けて所領の甲斐国に蟄居を余儀なくされる。
一次史料では、同年の12月に忠長が秀忠・家光の側近として権勢を振るっていた南光坊天海に対して書状を送って取り成しを依頼している。その書状に以下のようにある。
「今度我等儀煩故、召使候者共むざと申付」「御年寄衆御差図次第に」
つまり、自分には失態があった。しかし今後は老中や老臣らの指図に従って万事を行なう、と言っているのである。自分から「召使候者共むざと申付」などと言ってるから、家中の統率に関して忠長に何らかの不手際があったことは事実かと思われる。しかし、乱行があったかどうかまではわからない。
忠長は寛永9年(1632年)1月11日付天海宛書状でも、以下のように書いている。
「将軍(家光)様より、相国(秀忠)様へ御詫言」
家光から秀忠への仲介を依頼しているのである。さらに1月18日付、1月25日付天海宛書状では、忠長は病気に倒れていた父・秀忠の病状を心配する気持ちを吐露している。ただ、1月24日に秀忠は没しているため、恐らく忠長にはすぐには伝えられていなかったことがうかがえる。
そして、秀忠が死去して誰に遠慮することもなくなった兄の家光から同年10月に上野高崎藩主・安藤重長に身柄を預けられて改易となった。寛永10年(1633年)12月6日、大逆不道を理由に自害を命じられた。享年28。
主な家臣[編集]
- 朝倉宣正
- 鳥居成次
- 屋代秀正
- 稲葉正利
- 松平忠勝
- 三枝守昌
- 有馬頼次
- 内藤政吉
- 水野勝信
- 松野重元
- 浅井道多
- 木村友重
- 土岐頼泰
- 山名豊晴
- 山田重次
- 松平正朝
- 原重久
- 大久保忠尚
- 興津直正
- 日向正久
- 渡辺忠
- 森山盛治
- 仙石久形
- 堀三政
徳川忠長を演じた人物[編集]
映画[編集]
- 二代目尾上松之助(『駿河大納言と馬丁次郎吉』、1917年)
- 実川延松(『宇都宮釣天井』、1921年、帝キネ)
- 二代目片岡左衛門(『由利根元大殺記』、1929年)
- 楠武夫(『名槍血陣譜』、1930年)
- 高田篤(『松平長七郎』、1930年)
- 頼憲二郎(『処女爪占師』、1931年)
- 椿三四郎(『義人長七郎』、1935年)
- 水島道太郎(『宇都宮釣天井』、1937年、大都)
- 市川正二郎(『妖棋伝』、1937年)
- 千代田勝太郎(『柳生旅日記』、1938年)
- 日高梅子(『烈女競艶録』、1938年)
- 津島慶一郎(『旗本隠密』、1941年)
- 小高たかし(『長谷川・ロッパの家光と彦左』、1941年、東宝)
- 江原真二郎(『長脇差奉行』、1956年)
- 津村礼司(『雪姫七変化』、1957年)
- 南条新太郎(『流れ星十字打ち』、1958年)
- 片岡彦三郎(『旗本愚連隊』、1960年)
- 中村賀津雄(『家光と彦左と一心太助』、1961年)
- 島田竜三(『対決』、1963年)
- 山城新伍(『忍びの卍』、1968年)
- 西郷輝彦(『柳生一族の陰謀』、1978年)
テレビ作品[編集]
- 坂口徹(『柳生十兵衛』、1970年、CX)
- 沖田駿一(『一心太助』、1971年、CX)
- 舟木一夫(『春の坂道』、1971年、NHK大河ドラマ)
- 伊藤高(『家光が行く』、1972年、NTV)
- 江守徹(『忍法かげろう斬り』、1972年、KTV)
- 中村敦夫(『江戸を斬る 梓右近隠密帳』、1973年、TBS)
- 田村正和(『徳川三国志』、1975年、NET)
- 西田健(『柳生一族の陰謀』、1978年、KTV)、(『柳生あばれ旅』、1980年、ANB)
- 角井浄→永井秀和(『徳川の女たち(第一部)』、1980年、CX)
- 錦野旦(『柳生十兵衛あばれ旅』、1982年、ANB)
- 前田満穂(『柳生新陰流』、1982年、TX)
- 中村錦司(『長七郎江戸日記(第1部)』、1983年、NTV)
- 飯村隆司(『徳川家康』、1983年、NHK大河ドラマ)
- 伊勢将人→金田賢一(『大奥』、1983年、KTV)
- 荻島眞一(『風雲江戸城 怒涛の将軍徳川家光』、1987年、TX)
- 岩下謙人→橋本光成→雨笠利幸→斉藤隆治(『春日局』、1989年、NHK大河ドラマ)
- 倉田てつを(『家光と彦左と一心太助』、1989年、ANB)
- 渡辺慎也→金田賢一(『将軍家光忍び旅』、1990年、ANB)
- 長谷川哲夫(『長七郎江戸日記(第3部)』、1990年、NTV)
- 宅麻伸(『柳生十兵衛』、TBS)
- 三代目中村橋之助(『遊の人・天下の御意見番大久保彦左衛門』、1991年、TBS)
- 風間杜夫(『寛永風雲録 激突!知恵伊豆対由比正雪』、1991年、NTV)
- 若山騏一郎(『徳川武芸帳 柳生三代の剣』、1993年、TX)
- 高川裕也(『家光謀殺 三代将軍に迫る謎の暗殺軍団!』、1995年、ANB)
- 向江流架→今村優太→飯塚恭平→高杉瑞穂(『葵 徳川三代』、2000年、NHK大河ドラマ)
- 長島弘宜→浜田学(『大奥 第一章』、2004年、CX)
- 長島弘宜(『大奥 第一章 スペシャル』、2005年、CX)
- 若林久弥(『柳生十兵衛七番勝負』、2005年、NHK)
- 日比涼渡→海東健(『天下騒乱〜徳川三代の陰謀』、2006年、TX)
- 松田佑貴(声)(『シグルイ』(アニメ、2007年、WOWOW)
- 松島海斗→石垣佑磨(『柳生一族の陰謀』、2008年、EX)
- 寺岡修太郎→松島海斗→今川智将(『江〜姫たちの戦国〜』、2011年、NHK大河ドラマ)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 『千とせのまつ』
- 『東照大権現祝詞』
- 『古老雑談』