アルバニア
アルバニア共和国(アルバニアきょうわこく、アルバニア語: Republika e Shqipërisë)とは、バルカン半島南西部のアドリア海に面する国家である。政体は共和制。国土面積は2万9000平方キロ(日本の九州の8割)。人口は2011年の時点で299万5000人。人口密度は104.2人/㎢。首都はティラナ。国名の由来は先住民イリリア系アルバネス人の名に基づくと言われており、アルバネスとはラテン語の「albus(白いを意味する)」からと言われているが諸説がありよくわかっていない。なお、アルバニア人は自国のことをシュキペリア(鷲の国を意味する)と呼んでいる。
歴史[編集]
この地域は13世紀までローマ帝国・東ローマ帝国、10世紀にはブルガリア王国、14世紀にはセルビア王国、16-19世紀にはオスマン朝と、その時代の強国に支配されるのを任せてきた。1912年11月28日になって独立を果たすが、1939年4月7日になるとイタリア王国のベニト・ムッソリーニの侵攻を受けて同国に併合される。
詳細は「地中海航空戦」を参照
第二次世界大戦でイタリア王国が敗北すると、1946年に社会主義体制のアルバニア人民共和国として再度の建国が行なわれた。この時にアルバニアの最高指導者となったのが、エンヴェル・ホッジャである。以後、アルバニアはこのホッジャを中心にしてアルバニア労働党による一党独裁が行なわれた。ホッジャの社会主義はいわゆる教条的共産主義で、この共産主義は特に宗教弾圧を激しく行なったことで知られている。ホッジャは国内から聖職者を追放し、さらに全ての僧院の破壊活動を行って、1967年までにアルバニアでは無神論国家と化してしまう。なお、これは世界史上でも初となる無神論国家と見られている。
ホッジャはさらに1961年には、ニキータ・フルシチョフのスターリン批判をめぐってソ連と対立し、それまで親密だったソ連から離れて中華人民共和国に接近。ところが1970年代に中国もアメリカに接近したことから、ホッジャは中国を修正主義国と批判して断交し、親スターリン姿勢・反資本家貫徹のアルバニアは共産主義圏でも独自路線を取ることになった。
このため、アルバニアは世界的に孤立する羽目となって鎖国政策を余儀なくされ、国内経済は大いに停滞して国民生活は極端な窮乏を余儀なくされ、1990年頃までに確認できるイタリアへの経済難民は2万人以上が流出したと言われている。
1985年4月11日にホッジャが死去すると、それまでホッジャの独裁に押さえつけられていた国民の怒りや不満が一気に爆発してしまう。アルバニアで急速に民主化運動が強まり、これに対して政府も1990年に信仰の自由を復活させるなど妥協を見せるが、40年間に及ぶホッジャの独裁による弊害はその程度では最早抑えられなかった。結局、1991年にソ連が崩壊したのを契機にして史上初の複数政党制による自由選挙を実施し、それにより国名をアルバニア人民共和国からアルバニア共和国に改名する。さらに1992年には総選挙を行なって共産主義との決別を宣言した。
しかし1996年、ねずみ講式投資被害を機に反政府運動が勃発。1997年には事態収拾のために多国籍軍1200名が派遣されている。2000年には世界貿易機関(WTO)に、2009年4月には北大西洋条約機構(NATO)の28か国目として加盟している。
なお、アルバニア人は「首を振って肯定を、頷いて否定を示すという正反対のジェスチャーを示す」世界でも珍しい習俗を持つと言われているが、これはかつてのトルコ人の習俗の名残と見られている。
地理[編集]
アドリア海に面する小国で、沿岸地域を除く大半が平均1000メートルほどの山岳地帯であり、平地が乏しい。沿岸部は地中海性気候で温暖であるが、内陸部は大陸性気候の影響を受けている。
首都・ティラナの年平均気温は14.9度で、最高気温が7月の23.8度、最低気温は1月の5.9度であり、年間降水量は1361ミリである。
モンテネグロ、コソボ、マケドニア、ギリシャと接し、海上でイタリアと接している。
経済[編集]
この国は農業が中心産業であり、国民の約6割は農民で、小麦や葉タバコなどを生産している。ただし、長年の社会主義による独裁から貧困が酷く、ヨーロッパでは最貧国の1つとして数えられ、失業率も高い。
地下経済を潤すアルバニア・マフィアの存在は国際的な問題となっている。公式には交易していない中国・ロシアおよびCIS国家群・北朝鮮[1]の衣料品が闇市で出回っている。
宗教[編集]
従来は国策で無神宣言がされ半数が無神論者だったが、21世紀には多くがイスラム教に回帰した。
住民[編集]
- アルバニア人が92パーセント。
言語[編集]
通貨単位[編集]
国内総生産[編集]
関連項目[編集]
欧州連合加盟国 |