コンゴ共和国
コンゴ共和国(コンゴきょうわこく、République of the Congo)とは、アフリカ中西部に位置する国家である。略して単に「コンゴ」と書かれることもある(?)。首都はブラザビル。人口は2011年の時点で424万4000人。人口密度は12.4人/平方キロ。面積は34.2万平方キロで日本の9割ほどである。コンゴとは15世紀に栄えたバンツー系のコンゴ王国の名に由来するとされ、コンゴとはバンツー語で「山」を意味する。
概要[編集]
コンゴ共和国の国旗は、「緑、黄色、赤」の汎アフリカ色を使っている。
14世紀末に、コンゴ王国が成立して繁栄していた。しかし、1482年にポルトガル人のディオゴ・カンが来航してからは、奴隷貿易の拠点の一つとされてしまう。16世紀にポルトガルの属国となった。1885年にフランスの領有が認められるようになり、1910年にフランス領赤道アフリカに編入される。1958年にフランス共同体内の自治国に昇格し、1960年8月15日に完全に独立を果たした。同年9月20日には国連に加盟している。
1968年にクーデターにより、マリアン・ヌグアビ政権が誕生するが、この政権はマルクス=レーニン主義路線を唱える独裁政権であり、ブラック・アフリカ初の社会主義国家建設(またはアフリカ初の一党独裁国)を宣言した。1970年に国名をコンゴ人民共和国に変更する。以後、社会主義国の先祖ともいえるソ連と友好協力条約を結ぶなどしながら、かつての宗主国であるフランスとも関係を深めて西側諸国との関係も維持するなど、巧みな全方位外交を展開した。ソ連が崩壊し、社会主義が下火になるのを見ると、一党独裁を放棄し、1991年には国名を元のコンゴ共和国に戻した。
1992年、複数政党制に基づく初の総選挙と大統領選挙を実施する。ところが1997年、大統領選挙を前にして、この国はかつての植民地という歴史からの利害関係により、国土を南北に二分する武力衝突、いわゆるコンゴ内戦がスタートする。これは新勢力と旧勢力による利害の対立も背景にあった。この内戦では反体制派であるベルナール・コレラ元首相の民兵組織に日本の忍者から名前を借用したとされる「ニンジャ」がいたとされるが、実際は民兵とは名ばかりの群盗組織だったとされ、各地で商店や民家を襲撃して略奪の限りを尽くしたとされている。結局、6年間に及ぶ内戦の後、2003年になって和平合意が成立したが、この間におよそ30万人の国民が難民化したとされている。
人口[編集]
2002年の時点での人口は314万9000人。2011年時点の人口は424万4000人である。
国民性は勤勉的で、教育に関しては国家の専管事項とされており、識字率は2002年の時点で82パーセントとアフリカにおいてトップ水準を誇っている。
地理[編集]
コンゴ国土の48パーセントが熱帯密林で、南部と東部の国境に沿って大河であるコンゴ川が貫通する形で流れている。南部は熱帯雨林で降水量も多く、北部はサバナ気候で乾燥している。
首都ブラザヴィルは、コンゴ民主共和国の首都キンシャサと近く、コンゴ川を挟んだ対岸の関係になっている。
経済[編集]
主要産業は農業であり、サトウキビ、キャッサバ、カカオなどを生産する自給自足の農業国である。ただし1969年に海底油田が開発されて以降、現在では輸出の82パーセントが原油で占められており、サハラ以南では第4位の産油国となっている。ギニア湾沿岸の豊富な原油や天然ガス供給量に対して、自国でのエネルギー消費量が小さく、エネルギー自給率は2007年時点で990パーセントと大幅超過となっており、世界一を誇っている。
コンゴの通貨単位はCFA(中部アフリカ金融協力体)フラン(Franc de la Cooperation Financiere en Afrique Centrale)である。1人当たりの国内総生産は2010年の時点で2983米ドルである。
宗教[編集]
キリスト教が91パーセントである。
住民[編集]
言語[編集]
外部リンク[編集]
- 政府
- 日本政府
- 研究