東ローマ帝国

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東ローマ帝国(ひがしローマていこく)とは、現在のトルコ小アジア方面に存在した帝国である。395年ローマ帝国の東西分裂を経て東半分の帝国として成立したのがその始まりである。この帝国は1204年に一旦滅亡したが、亡命政権などを経て1261年に再興した。しかし1453年に最終的には滅亡している。なお、東ローマ皇帝に関しては一貫して同家の皇族が継承するのではなく、時代によって権力者が入れ替わるたびに皇帝の血統も入れ替わっており、中には王朝と全く関係の無い人物が皇帝になっている例も少なくない。なお、帝国はビザンツ帝国ビザンティン帝国とも言われる。

概要[編集]

ローマ帝国は395年ゲルマン民族の大移動をきっかけに帝国内が大混乱となり、さらに同年には帝国の皇帝・テオドシウス1世が死去した。テオドシウス1世は死去する前、帝国の東部を長男で17歳のアルカディウスに、西部を10歳のホノリウスに託した。これがローマ帝国の東西分裂である。西ローマ帝国は476年に滅亡し、これにより東ローマ帝国が唯一のローマ皇帝として継承してゆくようになった。

この帝国はユスティニアヌス1世など一部の時代を除くと常に不安定な政権であった。滅亡まで約90人の皇帝が誕生し、その間に3分の1にあたる30人近い皇帝が時の実力者によって暗殺されたりしている。この帝国は広大な領土ゆえに強力な皇帝の誕生、いわゆる軍人皇帝の誕生を必要とした。そのため、軍権と行政権が一体化したテマ制と呼ばれる制度が実施され、軍事に協力した報酬として徴税の権利が皇帝から与えられるプロイア制度が制定され、さらに皇帝に次ぐ爵位となる専制公の称号が設けられて帝国の軍事力と財力が保持されるようになった。

だが、この帝国はアジアヨーロッパを繋ぐ場所に位置した不運もあった。西アジアでイスラム教が誕生すると常にイスラム勢力の侵攻に悩まされるようになる。1096年からは十字軍の戦いも開始され、これに帝位継承争いなども加わって帝国の衰退が次第に顕著になった。そして1204年第4回十字軍によって首都のコンスタンティノープルが陥落し、ラテン帝国が建国されたことにより、東ローマ帝国は一旦滅亡の時を迎え、小アジアやギリシャなどに亡命政権が打ち立てられた。その亡命政権のひとつであるニカイア帝国により1261年、ラテン帝国が滅ぼされてコンスタンティノープルが回復されると、東ローマ帝国が復活を遂げた。

だが、再び帝位継承争いが起こり、これに小アジアからオスマン・トルコの侵攻も加わって、既に東ローマ帝国には往年の勢いは無かった。オスマン・トルコの攻撃の最中にも帝位継承争いは繰り返され、1354年にはその属州になるまで零落する。一旦は西欧諸国など欧州諸国の支援もあって盛り返すも、既にオスマン・トルコの侵攻を留めるだけの力も無かった東ローマ帝国は次第にその領土を侵食されて滅亡前には首都・コンスタンティノープルとその周辺のみを保持する小国にまで没落する。そして1453年、オスマン・トルコの皇帝であるメフメト2世の攻撃を受けて首都のコンスタンティノープルが陥落し、皇帝のコンスタンティノス11世死亡したことにより、東ローマ帝国は遂に終焉を迎えたのである。

外部リンク[編集]