カンボジア
カンボジア(Cambodia)とは、インドシナ半島南部に位置する国家である。現在の政体は立憲君主制。国土面積は18万1000平方キロ(日本のおよそ半分]])。人口は2011年の時点で1470万2000人。人口密度は81.2人/㎢。首都はプノンペン。カンボジアとは3世紀頃に隆盛を極めた扶南国の属国であったカンプシャ(後の真臘国)の名にちなむもので、語義は建国したインドのバラモン僧侶・カンプー仙に由来し、「独立の太祖カンプーの国」を意味するという。なお、カンボジア人は自国のことを「カンプチャ」という。
概要[編集]
歴史[編集]
前史[編集]
2世紀頃に隆盛を極めた扶南国の支配を経て、550年頃にクメール人による真臘国(カンプチア)が成立した。しかし、802年にアンコール朝が成立すると、この王朝は一気にインドシナ半島一帯に勢力を拡大し、隆盛を極めた。その証が12世紀に造営されたかの有名なアンコール・ワットである。しかし、この王朝は1431年にタイのアユタヤ朝によって滅ぼされ、そしてベトナムに支配された後の1863年にフランスの保護国となる。1887年にフランス領インドシナ連邦に編入された。
独立からクメール共和国として[編集]
1953年11月9日、王制下でカンボジアは独立を果たした。1955年12月14日に国連に加盟する。
ところが1970年、アメリカの支援を受けた右派の無血クーデターが勃発し、これによりノロドム・シハヌーク国王は中華人民共和国の首都・北京に亡命。王制は崩壊して共和制に移行し、国名もクメール共和国(クメールきょうわこく)と改称された。
民主カンボジアの悪夢とカンボジア人民共和国[編集]
1975年、教条的共産主義者のポル・ポトが政権を掌握すると、国名は民主カンボジア(みんしゅカンボジア)と改称された。
ポル・ポトは政権を握ると、カンボジアの全国民を集団農場へ送り込んで、親子と言うものがある限り「この茶碗は俺のもの」「他人より美味しそうなものを食べたい」というような私有財産制に基づいた資本主義的な発想は、家庭の中で親から子供へ受け継がれると考え、「俺の」という発想が残っている限り「理想の共産主義」は実現できないと考えて、見知らぬ男女を機械的にあてがって強制結婚させ、生まれた子供は親から離して純粋培養し、大人を全て殺してしまえば「俺の」という発想は社会から一掃されて、理想の共産主義が短期間で実現できると考えていた。いわゆる原始的共産主義であり、ポル・ポトの圧政により、反対勢力や知識人などが大量に粛清されることになる。その圧政により虐殺された数は諸説があるが、150万から200万人[1]は殺されたと見られており、これによりカンボジアは大混乱状態となる。
しかし、ポル・ポトを支えていた軍人らが、国民を殺した後は自分たちが殺されると悟り、当時国境紛争をしていた隣国ベトナムへ逃げ出して、反乱軍(ヘン・サムリン政権軍)を結成。1979年にはベトナム軍の支援を受けたヘン・サムリンがポル・ポトを追放してカンボジア人民共和国(カンボジアじんみんきょうわこく)の建国を宣言する。ところが、国内はヘン・サムリンの派と反ベトナム3派連合による激しい主導権争いを目指した内戦が勃発した。1989年、ベトナム駐留軍がカンボジアから全面的に撤退したことにより和平への道が進められるようになり、1991年に包括的和平合意が成立する。そして明石康を代表とする国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)による管理が行なわれた。
王制復活[編集]
1993年、かつて追われたノロドム・シハヌークを再度国王とするカンボジア王国が復活する。1999年には東南アジア諸国連合(ASEAN)に正式に加盟し、永世中立国・非同盟を宣言。近隣諸国との友好を重視する外交を展開している。2004年にはノロドム・シハヌークが王位を息子のノロドム・シハモニに譲位している。
だが、ポル・ポト政権による圧政の爪痕は現在もカンボジア全土に残されており、国土復興のために多くの友好国から支援を受けているのが実情である。
地理[編集]
カンボジアは国土の大半がメコン川が形成する広大な沖積平野から成り立ち、標高20メートルから200メートルの小さな丘が点在している。西部には東南アジア最大の淡水湖であるトンレサップ湖が広がっている。
熱帯モンスーンの気候のため、全般的に高温多湿で、5月から10月にかけての雨季と11月から4月にかけての乾季に分かれている。首都・プノンペンの年平均気温は27.6度で、最高気温が4月の29.4度、最低気温は1月の25.6度であり、年間降水量は1308ミリである。
日本との関係[編集]
この国は日本との関係が意外に古い。江戸時代前期に加藤清正の旧臣・森本一房(右近太夫)が1632年にアンコール・ワットを参拝して仏像を奉納し、落書きまでして日本に帰国したと言われている。1994年からは日本による遺跡修復作業も行われており、またポル・ポト政権による爪痕の深い国土復興のため、日本はカンボジアにかなりの援助を行なっている。
1540年代にポルトガル人によって日本にカボチャがもたらされたが、これはカンボジアのカボチャが日本に伝わったものと言われている。カボチャの名もカンボジアが語源となったものである。
経済など[編集]
この国はインドと中国の間に位置することから、古くは中印を結ぶ海上交通の中継地として繁栄した。またそのため、中印両国の文化を早くから受容しており、特にインドからの文化が多く受容されて、かつては「東南アジアにおける文化センター」とまで称されていた。アンコール・ワットやアンコール・トムなどの巨大な古代宗教都市が建設されたのも、インド文化の名残である。アンコールの遺跡群は1992年に世界文化遺産に登録されており、そのため観光がこの国の貴重な経済資源のひとつでもある。
だが、ポル・ポト政権による圧政、その爪痕は現在でも深い。合計すると22年間に及ぶ長期の内戦が行なわれてカンボジア国土は荒廃し、38万人の国外難民、18万人の国内避難民が発生したほか、近年はカンボジア王国の統治によって政情は安定しているとはいえ、ポル・ポト政権による400万から600万個といわれる埋設地雷の除去、HIV感染者の増大など問題がまだまだ山積しており、日本や各国の支援を受けて経済再建など国家再建事業が進められているとはいえまだまだ厳しい状況にある。
この国の主要産業は農業であり、労働人口の75パーセントが農民である。主に米、トウモロコシ、天然ゴムなどの栽培が行われており、トンレサッサ湖沿岸での水産業も行なわれている。ただし、膨大な数の地雷が未だに埋設されており、また長期にわたる内戦で傷ついた国土の復興はまだ道半ばであり、これらがカンボジア経済の発展を妨げている一因となっている。
文字[編集]
カンボジア文字、すなわちクメール文字は南インドにその起源が求められており、インド系の文字と同様に左から右へ筆記される。これをアルファベットに翻字すると74文字となり、確認されている限りでは世界で最も発音文字の多い言語と言われている。しかし実際には複雑な文字体系によって翻字方法は統一されていないので、現在では33の子音文字の上下左右に23種の母音記号を付けて表記されるのが一般的である。
宗教[編集]
住民[編集]
- クメール人が90パーセント。
- ベトナム人が5パーセント。
言語[編集]
通貨単位[編集]
- リエル(Riel)
国内総生産[編集]
- 1人当たり国内総生産は814米ドル(2010年)
国旗[編集]
クメール共和国時代(1970年 - 1975年)
脚注[編集]
外部リンク[編集]
政府[編集]
名誉領事館[編集]
- 在大阪カンボジア王国名誉領事館
- 在名古屋カンボジア王国名誉領事館
- 在福岡カンボジア王国名誉領事館
- 在札幌カンボジア王国名誉領事館
カンボジアの法律[編集]
- 憲法(英訳)
- 民法、民事訴訟法(逐条解説付)、民事訴訟法要説など - 日本の法整備支援を受けて起草された各法令の日本語訳や解説が掲載されている。
- 企業法(英訳)
- 外国産業財産権制度情報 - 特許庁のウェブサイト。特許法(特許,実用新案証及び意匠に関する法律)、商標法の翻訳を掲載。
- 雇用労働関係法令 - 労働関係法令の概要を解説。
- カンボジア投資ガイド - 労働法、土地法、破産法、知的財産権法などにも言及。
- カンボジア王立裁判官・検察官養成校民事教育改善プロジェクト成果 - 民事第一審模擬裁判記録、不動産仮差押模擬記録・同マニュアル、民事保全頻出質問集を掲載。裁判官・検察官養成過程で用いる教材であり、日本の法整備支援を受けて作成された。
- 神木篤「カンボジアにおける判決調査報告書」 - 法整備支援の一環として、弁護士に委託して行われた調査。
- カンボジアの投資環境 - 国際機関日本アセアンセンター