モンテネグロ
モンテネグロ共和国(モンテネグロきょうわこく、Montenegro)とは、バルカン半島中西部に位置する山がちな地形の国家のことである。政体は共和制。国土面積は1万4000平方キロ(日本の長野県とほぼ同程度)。人口は2011年の時点で66万2000人。人口密度は47.9人/㎢。首都はポドゴリツァ。国名の由来はラテン語の「黒い山」を意味することから。なお、モンテネグロ国民は自国のことをツルナゴーラと呼んでいる。
概要[編集]
歴史[編集]
この地域はセルビア王国、オスマン朝などに支配された後、1422年に建国の時を迎える。1699年以降は司教が統治する独自の神政国家を形成して半独立状態を維持し続けた。1878年の露土戦争でオスマン朝が敗れたのを契機に、モンテネグロ公国として独立を達成する。1910年にはモンテネグロ王国が成立するが、1914年からの第1次世界大戦に巻き込まれて1916年にはオーストリア・ハンガリー帝国に占領された。1918年に大戦に敗れて同帝国が解体すると、今度はセルビアに組み込まれることになる。そして第2次世界大戦が始まるとイタリアのベニト・ムッソリーニの侵攻を受けてこの地は占領下に置かれるが、住民によるパルチザン(非正規戦闘集団)の抵抗運動が激しく起こって同地解放の大きな原動力となった。そのため、第2次世界大戦後の1946年に、ユーゴスラビア連邦を構成する1共和国として昇格を果たしたが、これは大戦中のパルチザン運動が高く評価されたことから昇格を許されたといわれている。
一般的にモンテネグロ人というとセルビア人の支族と見られることが多い。文字、習俗、宗教などの文化面においてはセルビア人とほとんど変わらないし、言語にしても方言程度の違いしかないのが実情である。しかし祖先はバルカン半島南部の先住民であったイリリア人と言われ、近隣のアルバニア人とルーツは同じと見られている。後にローマ人、スラブ人、オスマン朝の支配下に置かれたため、スラブ化していったものと見られている。
1991年からユーゴスラビア連邦からの分離独立運動が開始されるが、この地域ではその運動には同調していない。1992年、セルビアと共に旧ユーゴスラビア連邦の国連議席権を継承して、新ユーゴスラビアとして再発足した。ところがコソボ紛争が原因でこれまで協力関係にあったセルビアと次第に対立が深まって距離をとらざるを得なくなり、2003年には完全独立を前提とする国家連合のセルビア・モンテネグロへと移行する。
2006年6月3日、国民投票によってセルビアとの連合体制を解消し、主権国家への道を選んだ。2007年10月に新憲法を制定し、国名をモンテネグロ共和国から単なる「モンテネグロ」に変更している(ただし、政体が共和制なのは変わらないため、現在でもモンテネグロ共和国と言われることが多い)。
地理など[編集]
この国の中央にはジナルアルプス山脈のカルスト台地が広がっており、南部と西部はアドリア海に臨んでいる。沿岸地方は夏季が高温少雨の地中海性気候であるが、内陸部は気温の年較差が大きい大陸性気候が見られる。
首都・ボドゴリツァの年平均気温は15.6度で、最高気温が7月の25.8度、最低気温は1月の5.3度であり、年間降水量は968ミリである。
経済など[編集]
ユーゴスラビア連邦時代の構成国の中では最小の国家であり、その領土の小ささから経済発展は最も遅れたのはやむを得なかった。この国の経済は農業・鉱業が中心であるが、旧ユーゴ紛争や経済制裁などの影響をもろに受けて経済状態は事実上破綻しているに等しく、また汚職や密輸などマフィア経済からの離脱も不十分なものである。近年はアドリア海沿岸の観光産業に力を入れている。
宗教[編集]
住民[編集]
- モンテネグロ人が43パーセント。
- セルビア人が32パーセント。
- ボスニャク人が8パーセント。
言語[編集]
通貨単位[編集]
国内総生産[編集]
- 1人当たり国内総生産は5825米ドル(2010年)
外部リンク[編集]
政府
日本政府
- 日本外務省 - モンテネグロ
- 在セルビア日本国大使館 - 在モンテネグロ大使館を兼轄
- 駐日モンテネグロ名誉領事館
観光
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