島根県
概要[編集]
県庁所在地は松江市。面積は6,708.24 km²[1]、人口71万人。少子化が進行しており、人口減少が課題になっている。中国地方にある都道府県の一つ。
地理[編集]
島根県は中国地方の北部にある。 また、島根半島の北方40〜80キロの海上には、島前、島後などから成る隠岐諸島がある。 東西の距離(国道9号線・安来市〜津和野町間)は約230キロで、海岸線に沿った長さは約1027キロ(島根沿岸約562キロ、隠岐沿岸約465キロ)になる[2]。
隣接する県[編集]
歴史[編集]
島根県は出雲・石見・隠岐の三国の国域から成立している[注 1]。神話の舞台となった出雲は、出雲大社をはじめ数多くの古社がある。石見には柿本人麻呂が国司として赴任している。日本海に浮かぶ隠岐は罪を得た都びとが流人として流入した。このため、中央文化が流入し、数々の貴重な伝統文化を残している。
鎌倉時代、出雲、石見、隠岐の守護はいずれも近江の佐々木氏であった。彼らは、土着し有力在地領主となったが、石見守護は承久の乱で京方となって敗れたため、以後は在地土豪の益田氏が実質的な守護となった。
室町時代になると、出雲、隠岐守護には京極(きょうごく)氏、石見には大内氏が任じられた。応仁の乱後、下剋上となり、富田城を拠点とする京極氏の守護代尼子氏が急速に強大化し、出雲の砂鉄や石見銀山を手中に収め16世紀初めの最盛期には山陰、山陽にまたがる大戦国大名に成長した。しかし、1566年、安芸の毛利元就に降伏し大名家としては滅んだ。
関ヶ原の合戦後、出雲、隠岐の領主になった堀尾吉晴は、富田城を廃して松江に築城したものの2代で無嗣改易となった。京極氏支配を経て、1638年(寛永15年)、結城秀康の子(徳川家康の孫)である松平直政が入城して、出雲を領する親藩松江藩が誕生し、明治維新まで続いた。
隠岐は天領に編入されたが、松江藩預かり地の時代が長く藩代官の支配を受けていた。そのため維新期には島民の不満から隠岐騒動が発生した。
石見は銀山領(天領)、浜田藩、津和野藩により統治されており銀山は17世紀前半最盛期を迎え、わが国最大の産出量となった。浜田藩主は幕末には親藩松平家となり、第2次長州征伐の際、長州藩の攻撃を受け浜田城は炎上。藩主は帰還不可能となり、明治の版籍奉還まで美作国の鶴田に「亡命藩庁」が置かれた。
津和野藩は坂崎出羽守に次いで亀井氏が藩主となるが、幕末には長州と結んで倒幕運動に参加した。
明治維新期の島根県の行政区域は複雑な変更が続いた。1869年2月隠岐県が成立、8月には、石見・隠岐が浜田藩と隠岐県を含めた大森県として成立するが、1870年2月浜田県と改称、1871年6月には津和野藩も浜田県に編入。11月には隠岐が分離され、浜田県は石見地域のみとなった。
また、出雲では1871年の廃藩置県により、7月に松江、広瀬、母里の3県が成立したが、11月には3県と隠岐が合併して島根県となった。翌年12月には、隠岐が鳥取県に移った。1876年4月には浜田県が島根県に編入されて本土部が現県域となり、次いで8月には隠岐を含めて鳥取県を合併して大島根県が誕生したが、5年後の1881年9月に、伯耆・因幡の旧国域で鳥取県が再置され現在の隠岐を含めた島根県が成立した。
島根県の県名は、1871年11月に名付けらた。県庁所在地の松江市が古くは島根郡に属していたためだとされている。また、それまでの県名である松江県が使われなかったのは、明治維新の際に松江藩が倒幕に消極的な立場をとったためであると言われている[3]。
文化[編集]
世界遺産[編集]
- 石見銀山(文化遺産)
遺跡・名所[編集]
- 松江城(国宝)
- 出雲大社(国宝)
- 津和野武家屋敷跡(景観保全地区)[注 2]
教育[編集]
大学[編集]
- 県内に四年制私立大学はない。私立短期大学も大阪健康福祉短期大学がキャンパスを開設するまで、1校存在したのみである。
高等学校[編集]
- 市域に複数の公立普通科高校はかつては松江市にしかなかった。出雲市も平成大合併で公立普通科高校が複数になったが、合併前の旧出雲市では1校しか公立普通科高校がなく、雲南市以外の市も同様に公立普通科高校は1校である。
- 中小自治体が多極分散している県の地理的事情から「しまね留学」と銘打った県外の公立高校志願者の受け入れが盛んで、松江、出雲両市の進学高を除いた大半の公立高校で県外志願者を受け入れている。
- 定時制は、宍道(松江市)、松江工業、浜田の3校のみである。
- 通学制の私立高校は松江、出雲、江津、益田の4市のみ立地。
メディア[編集]
- NHK
長らく、単県ローカル番組だったが、朝のおはよう日本で鳥取局とのローカルニュースの共同制作を開始した。
- 民放
1954年に隣県の米子市のBSS山陰放送がラジオ放送を開始してから、AMラジオは山陰2県の放送エリアであるが、仁多郡、飯南郡や鹿足郡といった山間部では難聴取で、南隣で大出力のRCCラジオの受信の方が容易な所もある。
VHFテレビ放送は当時郵政大臣だった田中角栄の裁定で、BSSが米子市に演奏所を置いたまま松江市に親局送信所をおいて島根県域のみでテレビ放送を展開し、いわゆる「ねじれ状態」となったが、1972年にBSSの鳥取県へのエリア拡大が認められ、島根県域テレビ局として開局したTSKさんいん中央テレビ、島根県に放送エリアを拡大したNKT日本海テレビと共に、地方都市としてはかなり早い段階で民放テレビ3局化が実現した。なお、系列局の無いテレビ朝日系列局はケーブルテレビで近県の系列局を視聴する人が多い。
民放FMラジオ放送は先行したAMラジオ、テレビと同様に山陰2県エリアとなっている。
- 新聞
島根県が舞台の作品[編集]
交通[編集]
空港[編集]
- 松江市街から米子鬼太郎空港へも連絡バスがある。
鉄道[編集]
高速道路[編集]
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脚注[編集]
- 注
- 出典
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