長門国

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長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。長州(ちょうしゅう)とも称される。山陽道に属する。

概要[編集]

厚狭郡豊浦郡美祢郡大津郡阿武郡の5郡から成った[1]。国衙(政庁)は長府(現在の下関市長府)[1]
現在の山口県美祢市宇部市萩市以西の北西部に相当だが、山口市に合併した旧阿東町も長門国域である。

国名の由来[編集]

大化元年(645年)の大化の改新の後である白雉元年(650年)、穴門国国司である草壁連醜経朝廷に白雉を献上し、朝廷でこれがめでたいしるし、すなわち瑞祥であるとして元号を白雉と改元し、穴門国の3年間における調役を免除した(『日本書紀』)。この穴門国とは海峡の国という意味であり、海峡の多い長門地方をその当時の慣例、すなわち土地の特性によって名づける事が普通だった当時、この穴門がなまって長門と呼ばれるようになったとされている[2]

歴史[編集]

律令制が敷かれるようになると、地方豪族の首長であった国造は廃止され、中央政府から派遣される国司が支配するようになった[1]。長門は律令制下では上限の推移はあるが、だいたい5万人前後の人口がいたと推定されている[1]

和銅元年(708年)に日本で最初となる銅の発掘が行なわれ、朝廷はそれを機に元号を和銅と改めた。初めて銅が発掘されたのは武蔵国であるが、長門からも良質の銅がこれと前後して採掘されたため、弘仁9年(818年)に現在の下関市長府に鋳銭司が設置され、日本最初となる貨幣である和同開珎が鋳造された。鋳銭司は長門国司が兼任し、15人の部下を督励して毎年約5500貫前後を鋳造した。長門に鋳銭司が設置されたのは朝鮮半島に近いため鋳造技術に長じた外国人労働者を求めやすかったためという。なお、この鋳銭司は「日本最初の造幣局」である[1]。一方、長門は京都から九州に至る交通上の要衝でもあり、そのため早くから街道の宿駅の整備も行なわれた[1]

平安時代後期に入って武士の台頭が始まると、長門は京都から遠隔の上、朝鮮半島や瀬戸内海では海賊行為が相次いで社会不安が増大した[1]。これに対して国司も軍備増強を行なうが効果はなく、長門在地の豪族である厚東氏の勢力が拡大していった[1]

平氏政権時代になると長門は平氏の知行国となる。源平合戦が始まると長門彦島で源平の戦いが行なわれ、文治元年(1185年)3月には赤間関(現在の下関市)前面の壇ノ浦で源平最後の決戦である壇ノ浦の戦いが行なわれ、平氏は滅亡した[1]。平氏滅亡後、この源平合戦のために奈良東大寺が焼失していたため、後白河法皇の命令で長門は東大寺再建の資材調達に当たる国に指定された[3]

鎌倉幕府が成立し、その中期にはモンゴル帝国南宋を滅ぼして成立していたにより元寇を受けるが、長門の武士である合田五郎安藤重綱らの奮戦もあり、元軍に勝利している[3]

室町時代になると長門は大内氏の支配下に置かれた。しかし大内氏は天文20年(1551年)に家臣・陶晴賢の謀反に遭い、当主の大内義隆は長門の大寧寺自殺し、この時点で大内氏は事実上滅亡した(大寧寺の変)。代わって長門を支配したのは陶晴賢を倒した毛利元就であり、毛利氏は元就の孫である毛利輝元まで中国地方を支配する大大名として隆盛を誇った。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで輝元は西軍の総大将になってしまったため、戦後に徳川家康によって中国地方10か国から周防国・長門国2か国に減封されてしまう。さらに新たな拠点を長門の萩に置くように幕府から命じられた、ここに長州藩が成立した。

長州藩は10か国が2か国に減ったために家臣の数の多さから常に財政難に苦しめられた。天保11年(1840年)の時点で藩の借金は9万2000貫という事実上の破綻状態だったが、村田清風藩政改革などもあり藩財政は再建され、幕末には雄藩のひとつとしてその地位を確立するに至る。加えて吉田松陰やその門下生である高杉晋作桂小五郎伊藤博文などの傑出した逸材を多く輩出し、幕末には倒幕運動の原動力となった。

明治2年(1869年)に版籍奉還が行なわれ、長州藩のほか、長門にあった長州藩の支藩である長府藩清末藩の藩主らも藩知事となる。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により長門には豊浦県清末県が置かれた。そして11月に周防国の山口県岩国県と共に全て廃止され、これら4県全てを統合した現在の山口県が誕生した[4]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i 人文社『ふるさとの文化遺産、郷土資料辞典・山口県』P18
  2. 人文社『ふるさとの文化遺産、郷土資料辞典・山口県』P17
  3. a b 人文社『ふるさとの文化遺産、郷土資料辞典・山口県』P19
  4. 人文社『ふるさとの文化遺産、郷土資料辞典・山口県』P23

参考文献[編集]

律令制下の国名(旧国名)一覧
畿内 山城国 / 大和国 / 河内国 / 和泉国 / 摂津国
東海道 常陸国 / 下総国 / 上総国 / 安房国 / 武蔵国 / 甲斐国 / 相模国 / 伊豆国 / 駿河国 / 遠江国 / 三河国 / 尾張国 / 伊賀国 / 伊勢国 / 志摩国
西海道 豊前国 / 豊後国 / 筑前国 / 筑後国 / 肥前国 / 肥後国 / 日向国 / 大隅国 / 対馬国 / 壱岐国
南海道 紀伊国 / 淡路国 / 讃岐国 / 阿波国 / 土佐国 / 伊予国
東山道 陸奥国 / 出羽国 / 下野国 / 上野国 / 信濃国 / 飛騨国 / 美濃国 / 近江国
山陽道 播磨国 / 美作国 / 備前国 / 備中国 / 備後国 / 安芸国 / 周防国 / 長門国
山陰道 丹波国 / 丹後国 / 但馬国 / 因幡国 / 伯耆国 / 出雲国 / 石見国 / 隠岐国
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