備中国
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備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。現在の岡山県高梁、新見、井原、浅口の各市や倉敷市の大半、岡山市北区南西部など県西部に相当する。
概要[編集]
旧吉備国から分割の3国の一つ。律令期は山陽道に属した。
織田政権末期は毛利方の清水元治が備中高松城主となったが羽柴秀吉の水攻めで自刃。秀吉は切腹を見届けた後、中国大返しを行った。決着後、3郡が毛利方から宇喜多秀家の所領になった。
近世は、まず小早川秀秋の領地になったが無嗣断絶後は、一部が岡山藩や福山藩の領地となり、他に足守藩、備中松山藩、新見藩などが立藩した。
明治4年(1871年)の廃藩置県により深津県に統合され、明治5年(1872年)には笠岡に県庁を置き備中国全体と備後国南部を県域とする小田県と改称される。
明治8年(1875年)に小田県は全域が岡山県に合併。その後、備後国域が広島県に移管された。