広瀬町 (島根県)
広瀬町(ひろせちょう)とは、島根県能義郡にかつて存在した町である。現在は安来市・能義郡伯太町と新設合併して新しい安来市の一部となって消滅している。
概要[編集]
昭和30年(1955年)1月に広瀬町と山佐村・比田村の両村、安来市石原町が合併して新しい広瀬町が誕生する。昭和42年(1967年)に布部村を編入した。
町域の中央には富田川(飯梨川)が流れ、その流域と支流沿いに民家が点在するが、町域の大半である88パーセント、すなわち10分の9までもが山林地帯を占めている。
この広瀬町の月山には月山富田城がかつてあった。この城は鎌倉時代から歴代の出雲守護が居城にしてきたため、この広瀬町は出雲地方の中心地として繁栄した。戦国時代に守護の京極氏を下剋上で制して戦国大名として君臨した尼子氏は、尼子経久と晴久の時代に大内氏・毛利氏と争いながら月山富田城を居城にして一時期は山陰・山陽地方において11か国を制する大戦国大名として君臨し、城下町は大いに繁栄を遂げた。しかし尼子氏は晴久の死後、急速に衰退して最終的には毛利氏に滅ぼされた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏は西軍に属して戦後に徳川家康によって大幅減封となったため、出雲には新たにかつては織田信長や豊臣秀吉に仕えていた堀尾吉晴・忠氏父子が23万石で入封する。慶長16年(1611年)、吉晴は居城を松江城に移し、以後はここが出雲地方の中心地として栄えたため、富田のある広瀬町は急速に衰退した。
堀尾氏は吉晴の孫・忠晴の時代に無嗣子により改易され、以後松江藩は京極氏の時代を経て、越前松平氏の時代となる。この越前松平氏の時代である寛文6年(1666年)に松江藩の支藩として広瀬藩3万石が立藩し、広瀬町は再び君主が支配する地域として繁栄を取り戻そうとしていたが、同年の秋には富田川の大洪水によって城下町はその流水を受けて壊滅的打撃を受ける。このため、富田川西岸に新たな城下町の建設が行なわれ、名もこの時に富田から広瀬に改められた。この寛文6年の大洪水で壊滅した旧城下町の遺構が昭和48年(1973年)から3年にわたって発掘調査され、多くの家屋跡や屋敷構え、陶磁器片、鉄器類などが発見されている。
大正時代の大正4年(1915年)、中心市街地のほとんどが大火事により焼失してしまった。
広瀬町は農林業が主産業であり、特産の広瀬絣は品質と絵模様に優れており、その工芸技術は島根県の無形文化財に指定されている。また、月山富田城跡(清水月山県立自然公園に指定される景勝地)は国の史跡の指定を受けており、尼子経久の墓所や新宮党館跡などの史跡も多く存在する。ほかに巌倉寺・城安寺・富田八幡宮などの古社寺も多く存在する。
平成16年(2004年)10月1日に安来市、能義郡広瀬町、伯太町が新設合併して旧安来市を廃し、新しい安来市となった。
広瀬町の主要施設[編集]
広瀬町の特産品[編集]
人口・面積[編集]
平成9年度版『全国市町村要覧』によると、平成9年(1997年)の広瀬町の人口は9894人、平成12年(2000年)10月1日の人口は9205人である。