毛利元就

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毛利 元就(大江 元就)

毛利 元就(もうり もとなり)は、戦国時代武将戦国大名

生涯[編集]

出生~有田中井手合戦[編集]

1497年安芸国豪族である毛利弘元の子として生まれる。鎌倉幕府の官僚、大江広元の子孫で、毛利の苗字も相模国愛甲郡毛利荘に由来する。
母は福原氏の娘。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)で、祖父の毛利豊元や後の福岡藩主の黒田長政と幼名が同じである。毛利氏はこの頃吉田郡山城に居城を構えており、この安芸に移り住んだのは鎌倉時代中期の毛利時親の頃である。その後室町時代と流れ、祖父の豊元の頃になると主君の大内氏の傘下へと入った。これは元々豊元は応仁の乱の際に東軍の山名是豊に味方していたが、毛利氏への処置に不満を抱えたために西軍の大内政弘に味方して山名氏に奪われていた所領を奪還したことに始まる。

豊元が隠居して弘元が家督を継承すると、弘元はその後嫡子であり元就の兄の毛利興元が産まれてすぐの1500年に隠居、多治比猿掛城に3歳の元就と共に移った。1506年に弘元が死すと、長男の興元が家督を継承した。同時に元就は猿掛城の城主となった。しかし猿掛城の件については、その後すぐに家臣の井上元盛に城を追い出されており、のち城下の荒屋にて一時期過ごしていた元就を弘元の後妻である杉大方が引き取って養育。兵法と学問を教えた。1516年に興元も死すと、家督は興元の嫡子である毛利幸松丸が継いだ。元就は幸松丸の後見人となった。

しかしこれは後見の元就や毛利勢をなめていた周囲の国人勢には毛利を潰す好機ができたと言う事であり、1517年には敵対する尼子氏派の守護安芸武田氏が毛利氏の同盟相手である吉川氏領内に攻め込んだ。元就は吉川氏の居城である有田城の籠城戦を回避すべく城の南にあった又打川にて武田勢と戦った。これが有田中井手の戦いで、元就は初陣であったにもかかわらず毛利勢は敵大将の武田元繁を討ち取り戦いに圧勝。戦いは「西国の桶狭間」と称された。

家督継承~尼子氏との戦い[編集]

1523年に幸松丸が没すると、元就は家督を継承して毛利氏第十二代当主となった。しかし、この継承を快く思わない者がいた。特に尼子経久大内氏と対抗するために、毛利氏当主を尼子氏に相応しくそして積極的に従う人物とする必要があった。その為経久は、元就の政権を内側から崩壊させて毛利氏を手中に入れようと考え、経久家臣の亀井秀綱を使者として元就の有力家臣であり元就の異母弟の相合元綱を尼子氏に転入させた。元綱はすぐに謀議を開始し、元就政権転覆を企んだ。

元就はこの謀議を察し、1524年に50名程を元綱の居城である船山城に送り込み、元綱とその家臣を城内で抹殺する事に成功した。1530年代初期には大内義隆に自身の嫡男の隆元を人質として送り、尼子氏との対立を確かなものとした。この頃に経久は息子の尼子詮久(後の尼子晴久)に家督を譲り、隠居していた。詮久は元就討伐に賛成していたが、大叔父の尼子久幸は元就の力を思い知っており、戦には大反対した。何より、1541年5月に元就が銀山城主の武田信重を滅ぼした事を予知したのが大きかったのであろう。経久も久幸に同感したが、詮久はこれを聞き捨てて1540年6月に3000の兵を率いて郡山城を目指し進軍した。しかし途中の祝屋城攻防戦などの毛利勢の守備が堅く、尼子勢は呆気なく敗退した。

同年8月、詮久は3万の兵を率いて安芸に進入し、風越山に本陣を置いて攻城姿勢をとった。元就勢は城の中に一般領民を引き入れて籠城姿勢をとった。一般領民は負傷者の手当や家臣などの食事の支度をし、紙製の具足を着用して偽兵の代わりをしたり、城下から持ち込んだ石を城壁へ登る尼子勢に投げ落として攻める尼子勢を苦戦させ、毛利勢の士気を鼓舞した。尼子勢は領民一体となって戦う毛利勢に翻弄され、途中で起こった局地戦にも敗退した。12月には大内勢の援軍が到着し、年が明けた1541年1月には尼子勢の勝利は完全に見込めず、大内家臣の陶隆房(後の陶晴賢)が尼子本陣に攻めかかり、詮久の首に迫ったが久幸が前に立ち戦死するまで奮戦した為詮久は一命を取り留めた。

3万の軍勢に籠城体制で、しかも5ヶ月で戦を終わらせそして山陰の雄・尼子の軍を潰滅したことは中国一帯に元就の名が知れ渡る出来事となった。

尼子晴久の反撃[編集]

1541年11月、尼子晴久(詮久から改名)の父親である経久が84歳で亡くなった。これを機に多くの国人衆が大内勢に寝返り、尼子勢は家の存続に関わる絶体絶命の状態となった。大内氏当主の大内義隆1542年1月に山口を出立、月山富田城を目指し1万の兵を率いて進軍した。元就もこれに乗じて隆元と共に出陣した。しかし瀬戸山城攻めに手間取り、1543年にやっと月山富田城攻めを開始した。元就は尼子軍が活発な軍勢のまま籠城することを恐れ、月山富田城を包囲したまま動かずに毛利勢に内通する者を多く出し、内側から尼子勢を崩壊させる持久戦法を義隆に提案したが、陶隆房などの攻撃的な戦法が採用されてしまった。しかし数回にわたる攻撃も功を奏さず、結局月山富田城攻めは失敗に終わり、大内勢は総退却を決意した。元就はこの時殿(しんがり)を任せられ、元就は敵の追撃に遭って命の危機に陥ったが、何とか安芸に帰還した。

両川体制[編集]

1544年11月、元就は三男の徳寿丸を小早川氏に養子として出した。徳寿丸は小早川隆景と名乗り、小早川家の家督を継いだ。前当主の小早川繁平が若い頃失明して僧侶になり、後継が居なくなったからである。隆景は繁平の妹を妻とした。1547年に元就は次男を吉川興経の養子として送り、それは吉川元春と名乗った。元春の養父である興経は月山富田城攻めの時に尼子勢へと裏切り出た者であり、1550年に元就は興経の屋敷に刺客を送り込み、興経を殺害している。この名目で元春は家督を継ぐ事ができ、毛利家が吉川・小早川両家を操って思うように動かす事ができる、つまり毛利家の両川体制が確立された。

大寧寺の変〜厳島合戦[編集]

大内義隆は月山富田城攻めに失敗して以降、当主として戦に参加することは無くなり、能や茶湯などの文化だけに接する文化人となった。戦に非積極的な義隆の態度を見て、武断派の家臣達は反抗を強めた。そのトップとして、陶隆房は反乱を強めて1551年には長州深川・大寧寺にて大寧寺の変を起こし、義隆を自刃に追い込んだ。義隆の嫡男になる予定だった大内義尊も翌日に捕縛・殺害された。これにより戦国大名としての大内氏は断絶した。隆房は大友晴英を養子として家督を継がせ、自らは出家して名を晴賢(はるかた)と改めた。

元就はこの大内一族の問題を独立の好機と読み、最初は晴賢と協調する部分もあったものの、その後陶氏との断交と対立を決定して陶領となった安芸西部を攻めて安芸全域を毛利の支配範囲とした。

1555年、元就と晴賢は宮島(厳島)にて激突することとなった。元就は敵を一点に集めて集中攻撃する戦法を編み出し、陣城の宮尾城を築城した。さらに元就は3人の子にそれぞれの戦の役目を与え、長男・隆元は井戸のない宮尾城に大量の水瓶を運び、水源を得た。次男・元春は尼子氏の要衝である石見地方を攻撃して背後の敵を牽制、三男・隆景は村上水軍を調略して毛利勢の味方とした。元就はというと、陶勢を挑発し偽情報を流し込んで晴賢を撹乱させた。元就は戦準備と謀略技術が全て整い、晴賢は戦に反対する重臣たちの意見を強く押し切って強引に出陣した。1555年9月21日、晴賢は宮尾城より南にある塔の岡に布陣し、己斐直之勢500の軍が守っていた宮尾城へ攻撃を開始した。元就は9月27日に吉田郡山城を出立、9月28日に吉川元春と合流して廿日市の海岸にあった火立岩に本営を置いた。一方、直之の守備する宮尾城も空堀が埋められて、さらに約10年前に伝来したばかりであった火縄銃を使った攻城が行われて落城の危機が迫っていた。村上水軍の援軍を待たずに陶勢への攻撃を展開しようとしたが、すぐに村上水軍が到着して火立岩より沖に投錨、宮尾城を攻める陶勢を集中攻撃した。9月30日夜は暴風雨であったが、元就・隆元・元春は闇と雨で見えにくくなったその隙を突いて、陶勢の本陣を背後から攻撃した。隆景の別動隊は厳島神社大鳥居をくぐって神社正面から上陸、己斐勢と合流して陶勢の本陣へ突き進んだ。夜が明けた10月1日の暁には陶勢が総崩れし、追い込まれた厳島西岸にて自刃した。これを厳島の戦いと呼ぶ。1557年には晴賢の嫡子である陶長房富田若山城攻めにて討ち死にし、陶氏は滅亡した。この頃、元就は長州をも手中に収めた。

中国地方の覇者に終わる[編集]

長州を平定した毛利元就は、1562年石見銀山を攻めて石見を平定、山陰攻めの準備が整った。尼子晴久は没し、尼子氏は尼子義久が当主になっていた。同年には毛利隆元が急逝し、元就は悲しみに暮れたが、堅固な白鹿城の攻城戦を弔い合戦として圧勝した。隆元を弔い、心を取り戻した元就は月山富田城へと徐々に進み、1565年に月山富田城を攻めはじめた。1566年、月山富田城は兵糧攻めで落とされ、義久は自身の切腹と家臣の助命を条件に降伏、尼子氏は名実ともに毛利氏の元に下り山陰を平定した。年が明けた1567年に元就は吉田郡山城に帰還した。この時元就は病を患っており、1570年には病が急激に重くなった。1571年にはさらに重体化し、6月14日に75歳の生涯を全うした。死因は、食道癌であった。

逸話[編集]

  • 毛利隆元・吉川元春・小早川隆景が青年になった時、3人が協力すれば大きな力になることを教えた「三本の矢」が有名。

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子女と子孫[編集]

正室所生
  • 長男:隆元
    • 毛利輝元 - 隆元の嫡子で、元就の孫として毛利家を後継。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将を務めたが大敗し、元就の頃から巨大化した領地はに大幅減封とされた。
  • 次男:吉川元春
    • 吉川広家 - 元春の三男。後に兄より吉川家を継ぐ。萩転封後、岩国領初代当主となる。
  • 三男:小早川隆景
    • 小早川秀秋 - 隆景の養子。豊臣秀頼誕生後に隆景が養子に貰い受けた。関ヶ原の戦い後、短期間で死没し、小早川家は絶えた。
  • 次女:五龍局 - 宍戸隆家に嫁ぐ。これにより、宍戸家も毛利家一門衆となる。
側室所生

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毛利元就を主人公とした作品[編集]

書籍[編集]

テレビドラマ[編集]

関連項目[編集]

  • 尼子晴久 - 元就の生涯のライバル。1561年脳溢血で急死したが、元就が亡くなるより先まで生きていれば尼子氏の未来は変わっていたかもしれない。
  • 広島 - 輝元が1592年に居城とした、広島城を中心として栄えた街。広島の「広」は、毛利氏の祖先である大江広元に由来する。