本光院 (徳川家宣側室)
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本光院(ほんこういん、? - 宝永7年7月25日(1710年8月19日))は、江戸幕府第6代将軍・徳川家宣の側室。俗名は斎宮(いつきのみや)[1]。
生涯[編集]
父は江戸幕府の幕臣で大番・御家奉行を務めて360石を食んでいた旗本の小尾直易で、本光院はその4女に当たる。よく直易は徳川忠長に仕えていたといわれるが、これは年齢的に考えにくく、実際に忠長に仕えていたのは直易の父の小尾正直で、正直は寛永19年(1642年)に第3代将軍・徳川家光に召し出されて幕臣となっている[1]。
本光院は甲府藩主だった徳川綱豊の桜田屋敷に奉公し、その際に綱豊の寵愛を受けた。宝永元年(1704年)に子女に恵まれなかった第5代将軍・徳川綱吉の命令で綱豊は将軍世子に昇格して家宣と名を改め、江戸城西の丸に移ると本光院もそれに従う。宝永6年(1709年)に綱吉が死去すると、家宣は第6代将軍となり、本光院は将軍側室となった。そして宝永7年(1710年)7月24日に家宣の男子を産むも、男子は即日死亡し、自らも難産により、その翌日に死亡した。法名は本光院妙秋日円大姉[1]。
子と共に、小梅(現在の東京都墨田区向島3丁目)の常泉寺に葬られた[1]。