生類憐みの令
生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)とは、貞享4年1月28日(1687年3月11日)に出された江戸幕府の法令である。第5代将軍・徳川綱吉によって発布され、「天下の悪法」として多くの人々を苦しめた法令と言うのが通説である。江戸幕府で出された法令の中で最も有名な法令に当たる。なお「生類憐みの令」とは綱吉が出した生類を憐れむことに関して出した法令を総称したものであり、貞享4年に出された法令が一応の完成と見るのが通説とされている。
概要[編集]
第5代将軍・徳川綱吉はこの法令を出す4年ほど前に、唯一の男児であった徳松を病気で失っており、以後は男児に恵まれなかった。母の桂昌院は綱吉に男児が生まれることを望んで、自らが尊崇する僧侶の隆光から「綱吉に子が生まれないのは前世において殺生をした報いであり、子が得たいのであれば殺生を慎み、生類憐みを心がけること。綱吉は特に戌年生まれであることから、犬を大切にするように」と進言されたことがきっかけで、法令が発令される動機になったというのが有力説である[1]。
ただ、綱吉自身は将軍職就任当初から、儒学や仏教の教えによる人心教化を企図していた。いわゆる文治政治の完成を目指しており、そのために天和2年(1682年)5月、諸国に対して「忠孝を奨励し、夫婦兄弟仲良く、召使などを憐れむように」という高札を出して命令している。実際はこの命令こそが生類憐みの令の始まりではないのか、という説が近年では考えられるようになっている。
ただ、生類憐みの令に対する監視や弾圧が厳しかったのも事実である。蚊を殺しただけで処罰されたり、犬を傷つけて遠島にされたりなど、民衆ばかりではなく武士も苦しんだといわれている。そのため、この法令は将軍専制体制下における「悪法」と評価されることが多い。ただ、この法令によりそれまで軽視されていた「人命」「動物の命」などが注目されるようになり、あるいは大切にされるようになった、あるいは考えられるようになった、という点では評価をするべきではないのか、という意見もある。
綱吉はこの法令を出しても結局、男子には恵まれなかった。唯一あった娘・鶴姫を紀伊国和歌山藩主・徳川綱教に嫁がせてその間に生まれた男子を後継者にしようと画策もしたが、鶴姫も綱吉に先立った。そのため綱吉は甥(兄・綱重の長男)の綱豊(徳川家宣)を世子に迎えて後継者とした。
宝永6年(1709年)1月10日、綱吉は死去し、家宣が第6代将軍に就任した。綱吉は死去する直前、家宣に対して生類憐みの令の永続を遺言して「生類を憐れむことだけは百年千年も守るべし」と述べていたが、1月20日に新井白石の進言もあって家宣はこの遺言を破り、一部のみを残して生類憐みの令の大半を廃止した。これにより、発令同日には江戸郊外の中野の御犬小屋は廃止された。さらに2月2日に生類憐みの令のために入獄・遠島となっていた人々は家宣将軍就任の大赦により皆許され、出獄したと言われている。
貞享2年(1685年)2月から宝永5年(1708年)11月までの23年9か月の間におよそ70回もこの法令は禁制を発布するなど、混乱が続いていたことも廃止の原因になったといえる。
参考文献[編集]
脚注[編集]
- ↑ この逸話は非常に有名だが、北島正元と三上参次は疑問を抱いている。綱吉が徳松を失ったのは天和3年(1683年)で、それから4年も後にこんな逸話ができたことを疑問視。また、生類憐みの令は貞享4年(1687年)に出されたのではなく、貞享2年(1685年)2月に既にその系列に属する法令が確認できるため、この逸話は隆光ではなく、その隆光の師匠であった亮賢ではないか、と両者は唱えている。貞享4年まで隆光と綱吉・桂昌院母子の関係は余り確認できず、むしろ亮賢のほうが確認できるため、この進言は亮賢がしたものと見られている。三上は生類憐みの令の初発は貞享2年としており、それを根拠にこの逸話の主は亮賢であると唱えている。