徳川吉通

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徳川 吉通(とくがわ よしみち、元禄2年9月17日1689年10月29日) - 正徳3年7月26日1713年9月15日))は、尾張藩の第4代藩主従四位従三位

生涯[編集]

父は第3代藩主・徳川綱誠で9男[1]。母は側室坂崎勘左衛門の娘・下総・於福(本寿院)。兄弟に継友松平義孝松平通温宗春らがいる。正室九条輔実の娘・輔姫(瑞祥院)。側室は2人(三(随縁院)、尾上(守崎氏・清水院))。官位は従三位権中納言は子中。子は1男2女(五郎太三千君九条幸教室)、三姫(徳川宗勝室))。

江戸で生まれる[2]元禄8年(1695年12月元服し、第5代征夷大将軍徳川綱吉から「吉」の一字を賜って吉通と称し、従四位下、右兵衛督に叙任される。吉通の兄はいずれも早世したため、元禄12年(1699年6月に父が死去した後、7月に家督相続して藩主となる。藩主就任時は11歳の若さであるため、元禄13年(1700年)までは存命の祖父で第2代藩主の徳川光友が補佐を受け、その死後は叔父美濃高須藩主・松平義行の補佐を受けた。

家督継承後の8月従三位、右近衛権中将に叙任され、元禄14年(1701年12月参議を兼任する。元禄15年(1702年4月に輔姫を正室として近衛家から迎えた。宝永元年(1704年)11月に権中納言に昇進する。

藩政においては市川甚左衛門奉行に任命し、停止木制度の実施を行ない、いくつかの木曽山林政改革を行なう。また、綱吉の姉・霊仙院(千代姫)の孫に当たるため、第6代将軍・徳川家宣正徳2年(1712年)に重病に倒れると、その嫡子である徳川家継が4歳の幼少であったことから吉通が第7代将軍、あるいは家継の後見人に選ばれることも考えられていたが、吉通が若年であることと家宣の側近・新井白石間部詮房の反対により実現しなかったという。

もともと大酒飲みで素行が悪かったとされ、酒害に犯されていたためか常に吐血していたという。このため正徳3年(1713年)7月26日に江戸藩邸で急死した。直接の死因は記録によると饅頭による食あたりとされるが、一説に毒殺説なども推測されている。

家督は長男の徳川五郎太が継承した。

戒名は圓覺院殿賢譽知紹源立大居士。墓所は愛知県名古屋市東区筒井の徳興山建中寺

吉通の死について[編集]

吉通の死については、以上の史料から異常なものであったと伝わっている。

  • 食後に急に吐血して悶死した。しかも医師が傍にいながら、全然看病しなかったとされ、当時からその死因を不審がる者がたえなかった(室鳩巣の『兼山秘策』)。
  • 紀州藩間者が尾張藩邸を窺っているという風説があった(尾張藩士の日記)。これには細かくは書かれていないが、暗殺を疑われていた可能性がある。

人物像[編集]

吉通に関しては名君と暗君の両極端な評価がある。武術・儒学・国学・神道を修めて尊王精神を強調した訓戒を子孫に残し、近侍近松茂矩から文武の名君と評価されている。暗君としては水練の際に盛夏でさえ微温湯を用いたりした逸話がある。

家系[編集]

徳川吉通が登場する作品[編集]

脚注[編集]

  1. 10男とする説がある。
  2. 出生地に関しては名古屋城2の丸とも言われる。

外部リンク[編集]


先代:
徳川綱誠
尾張藩
4代:1699年 - 1713年
次代:
徳川五郎太