甲府藩
甲府藩(こうふはん)とは、江戸時代前期と中期の一時期のみ、甲斐国に存在した藩である。藩庁は甲府城。現在の山梨県甲府市に存在した。正式な藩名は甲斐府中藩(かいふちゅうはん)。
概要[編集]
武田支配下[編集]
甲斐国は武田信虎の時代に統一され、信虎は拠点を石和から甲府に移した。これが甲府の都市の起源である。信虎が暴政を理由に嫡男・武田晴信に追放されると、晴信は甲府を京都に見立てた碁盤上の市街作りを行なって基礎を固めた。ただし、晴信の時代に城は築かれなかった。晴信(信玄)の死後、跡を継いだ勝頼は織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐で滅ぼされ、甲斐は河尻秀隆の支配下に置かれる。しかし秀隆はわずか3か月後に勃発した本能寺の変で信長が死去すると、武田旧臣による一揆(天正壬午の乱)により殺され、甲斐国は家康の支配下に入った。
豊臣政権下[編集]
家康は甲府城を築城するなどして内政を整備したが、天正18年(1590年)8月に関東に移封となる。
代わって同年11月、豊臣秀吉の甥で養子であり、豊臣秀次の実弟である豊臣秀勝が甲斐の領主となる。しかし、秀勝は天正19年(1591年)3月に美濃国岐阜城に移封され、代わって4月に秀吉の古くからの家臣である加藤光泰が甲府城主となる。しかしこの光泰も文禄2年(1593年)に文禄の役で渡海中の釜山において石田三成に毒殺されたとする説が根強い謎の死を遂げた。家督は嫡子の貞泰が継承したが、貞泰は幼少のため秀吉は文禄2年(1594年)に4万石で美濃国黒野城に移すなど、短期で目覚ましく領主が交替した。
代わって同年10月、豊臣秀吉の縁戚に当たる浅野長政が入封したことにより、ようやく領主が安定した。長政は豊臣政権の五奉行となって政権に参画したため、実際の政務は嫡子の幸長が行なった。幸長は甲府城を完成させ、慶長元年(1596年)から国中3郡(八代郡・巨摩郡・山梨郡)の検地を実施する[1]。この検地により、甲斐は22万5000石と算定されたが、強行検地だったことから多くの農民が逃散するという状態だったという。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、長政・幸長父子は豊臣一門であったが石田三成と敵対していたことから、東軍に属した。その戦功により、戦後に幸長は家康によって紀伊国和歌山藩に加増移封となり、甲斐国は家康の支配下となる。
江戸時代初期[編集]
慶長6年(1601年)2月、家康股肱の家臣である平岩親吉が甲府城代に封じられて甲斐国を支配する[2]。慶長8年(1603年)1月、家康は9男の徳川義直を25万石で甲府藩主に任命し、ここに甲府藩が立藩した。ただし義直は藩主就任時点でわずか4歳のため、藩政は引き続き城代の平岩親吉が義直の傅役を兼ねて担当した。慶長12年(1607年)閏4月、義直は尾張国名古屋藩に62万石で加増移封となり、この際に親吉も従って尾張犬山藩主となり、こうして甲府藩は廃藩となった。
元和2年(1616年)9月、江戸幕府第2代征夷大将軍・徳川秀忠の子・徳川忠長が甲府に23万8000石をもって入封され、ここに甲府藩が再立藩した。しかし忠長は藩主就任時点で11歳のため、家臣の鳥居成次と朝倉宣正らが藩政を担当した。将軍の息子であることから、忠長には元和8年(1622年)に信濃国小諸に7万石の所領を加増され、官位も権中納言に栄進するなど特別待遇であった。寛永2年(1625年)8月、忠長にはさらに駿河国・遠江国などにおいて20万石の加増を受け、これまでの所領と合わせて50万石の大領主となり、藩庁を駿府城に移したことから以後は駿府藩主となり、甲府藩は2度目の廃藩となった。
甲州徳川氏時代[編集]
慶安4年(1651年)4月、第3代将軍・徳川家光の子・徳川綱重が甲斐国の河西地方(巨摩郡・山梨郡などの笛吹川以西)に14万石を与えられた。ただし、この時は桜田領と言われ、綱重自身もわずか8歳で江戸にいたため、甲府藩の再立藩とは見なされていない。それから10年後の寛文元年(1661年)閏8月、18歳に成長した綱重は第4代将軍で兄である徳川家綱から正式に甲府城主に任命され、甲斐国のほか、武蔵国・信濃国・近江国などにおいて25万石の所領を与えられた。これにより甲府藩が3度目の立藩を果たした。
綱重は寛文・延宝年間に検地を実施したが、これが原因で寛文12年(1672年)には高免反対の一揆が発生している。他にも用水路の開発、新田開発などが行なわれて藩政の基礎が固められているが、延宝2年(1674年)には凶作を理由に救助米をめぐって甲府城番と代官の間に対立が起こって家老が失脚するなど、その藩政は安定していたとは言い難かった。
延宝6年(1678年)に綱重が死去し、長男の綱豊が第2代藩主となる。綱重は子が無かった兄・家綱の後継者として第5代将軍に目されていたが、兄より早く死去したため、それはかなわなかった。延宝8年(1680年)に家綱が死去すると、綱豊は家綱の甥として後継者候補の1人に目されたが、この時点でまだ19歳という若さであり、より血縁が近く年齢も35歳と働き盛りだった家綱と綱重の弟である綱吉が第5代将軍に就任したため、綱豊の第5代将軍の就任は幻に終わった。ただし、その見返りとして近江国・信濃国・大和国などにおいて10万石を加増され、さらに権中納言に昇進するなど特別待遇を受けている。
綱豊は貞享元年(1684年)から検地を実施したが、この際に検地を担当したのが数学家の関孝和であった。綱豊も藩政の基礎固めを行ない、藩政を安定させた。ところが第5代将軍になった綱吉の唯一の男児であった徳松が早世し、以後綱吉は男子に恵まれなかったため、宝永元年(1704年)に綱豊は将軍世子として江戸城西の丸に入った。なお、この綱豊は将軍世子になった際に名を家宣と改め、5年後に第6代将軍となった。
柳沢氏時代[編集]
綱豊に代わって甲府藩に入ったのは、武蔵国川越藩主だった柳沢吉保である。吉保は綱吉から寵愛されて側用人、そして大老格と重用されて権勢を振るったことで知られている。吉保の所領は15万1200石であり、甲斐国国中3郡と駿河国内に所領があった。なお、この柳沢氏の甲府藩主就任は唯一の譜代大名の就任でもある。
吉保は条目27か条を制定したり、甲府城の改築、さらに城下町の整理と拡大を行なって藩政をさらに発展させ、1704年には天領となった谷村藩領を預地とした。
宝永6年(1709年)に綱吉が死去すると、吉保は後ろ盾を失って失脚となり、この際に藩主の座も嫡子の吉里に譲った。なお、この吉里は綱吉の落胤と言われている人物である[3]。吉里は藩主になると、弟の時睦と経隆らにそれぞれ新田1万石ずつを分与し、甲府新田藩を立藩させている。
吉里の時代は検地、並びに綱重の時代に行なわれた治水工事のやり直しであった。検地で出された算定は30万3800石であった。また、治水工事であるが綱重の時代に行なわれたものが度重なる災害などで破損したため、新しくやり直したものとされている。さらに吉里は(恐らく吉保の指示があったのかと思われるが)、3回にわたって甲州金の改鋳を行なっている。これは日本の国内経済を後々まで混乱させる大問題にもなった。
天領 - 幕末[編集]
享保9年(1724年)3月、吉里は大和国郡山藩に移封となり、ここに甲府藩は完全に廃藩となり、天領として以後は支配された。この地は幕府の素行の悪い旗本などが山流しにされる甲府勤番の配下地となって、大政奉還を迎えた。
明治の廃藩置県で一旦甲府県となった後、1871年12月に山梨県に改称した。
歴代藩主[編集]
尾張徳川家[編集]
親藩 - 25万石
駿河徳川家[編集]
親藩 - 20万石
甲府徳川家[編集]
親藩 - 25万石
柳沢家[編集]
譜代 - 15万石