新見正信

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新見 正信(しんみ まさのぶ、慶長9年(1604年) - 元禄5年11月15日1692年12月22日))は、江戸時代前期から中期にかけての旗本幕臣甲府藩家老で第6代征夷大将軍徳川家宣養父に当たる。受領名は但馬守。

生涯[編集]

最初は第2代将軍・徳川秀忠に仕え、元和4年(1618年)に大番に列する。秀忠の後は第3代将軍・徳川家光に仕え、寛永19年(1642年)に目付となる。慶安2年(1649年)、家光の子・徳川綱重付の家老に任命され、甲府藩の藩政を仕切る立場となった。

綱重は正室を迎える前に側室との間に息子をもうけており、正室を迎えるに当たってその子は家臣に預けざるを得なくなり、正信はその子の養育を命じられて養父として寛文3年(1663年)8月27日に綱重の庶長子である虎松(後の綱豊・家宣)を預けられた。しかし、綱重は正室との間に子供に恵まれなかったため、虎松は綱重のもとに戻されている。

延宝2年(1674年)、高齢で歩行も不自由になったことから家老職を免じられ、隠居する。しかし隠居後も老臣として綱重の下に出仕して甲府の藩政に関与した。延宝6年(1678年)、綱重が死去すると跡を継いだかつての養子・綱豊に仕えるが、間もなく甲府藩で大規模な百姓一揆が勃発し、その一揆が綱豊のいる桜田御殿まで訴え出たので、その責任を取る形で改易処分にされた。ただし、罪に問われた形跡はこれだけで、身柄は養子新見信義の知行地である武蔵国新座郡に移されただけだった。

以後は藩政に関与することなく、元禄5年(1692年)11月15日に89歳の高齢で没した。墓所は神奈川県横浜市戸塚区徳翁寺

正信は綱豊の養父だったことから信任が厚く、その信任を妬んだ家臣に讒言された際も綱豊は正信をかばっており、改易された際にもほとんど罪に問われてないことから、綱豊に守られたのではないかと思われる。

関連項目[編集]

  • 越智喜清 - 虎松同様に綱重の庶次子(家宣の同母弟)を育てた綱重の家臣。家宣と違い、同母弟の清武は40代半ばでようやく松平の名乗りを許され、越智松平家御家門)の家祖となる。