千姫

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千姫(せんひめ、慶長2年4月11日1597年5月26日) - 寛文6年2月6日1666年3月11日))は、安土桃山時代から江戸時代女性。法号は天樹院(てんじゅいん)。豊臣秀頼正室となり、その没後は本多忠勝の孫である本多忠刻の正室となった。

生涯[編集]

当時は徳川家康の3男で継嗣と見られていた徳川秀忠(後の江戸幕府の第2代征夷大将軍)を父とする。母は浅井長政の娘・崇源院(江)。2人の間に生まれた初めての子で長女である。

当時、天下人であった豊臣秀吉は家康の勢力を危険視し、また幼少の秀頼の将来を案じ、秀吉が慶長3年(1598年)に死の床についた際、その遺命という形で秀頼と千姫の婚姻が決められた。その後、秀吉の死去と関ヶ原の戦いを経て家康が覇権を掌握し、江戸幕府を開幕する。その開幕直後の慶長8年(1603年)、千姫は家康の命令で秀頼に嫁ぐことになった。秀頼は従兄であり、当時の両者は11歳と7歳であった。

千姫は秀頼との間に子供には恵まれず、またこの婚姻は豊臣氏徳川氏の融和も目的とされていたが、それは果たせずに慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発する。慶長20年(1615年)に大坂夏の陣が勃発して豊臣方の敗北が決定的になると、千姫は豊臣家の家老大野治長より大坂城落城の寸前に家康の下に送り返された。これは治長が秀頼とその母である淀殿の助命嘆願を期待してのものとされるが、千姫の助命嘆願は実を結ばず、秀頼と淀殿は自害する。秀頼が側室に生ませていた嫡子国松丸も処刑されたが、娘の天秀尼(奈阿)のみは女児ということもあり、千姫の助命嘆願を聞き入れて尼となることで助命された。

千姫はこうして未亡人となったが、まだ19歳の若さであるため、将軍の長女として再婚の話が進められた。その結果、元和2年(1616年)に伊勢桑名藩主・本多忠政の長男・忠刻との結婚が決められた。この際に石見津和野藩主・坂崎直盛によって千姫事件が引き起こされている。忠刻は抜群のイケメンだったとされ、現在の名古屋市にある徳川美術館にある「伝本多平八郎姿絵屏風」において、千姫が忠刻にラブレターをしたため、それを忠刻に渡されるというものがある。また、千姫がイケメンの忠刻に熱烈に惚れ込んだとする話もあるが、とにかく再婚による千姫と忠刻の夫婦仲は良かったようである。秀忠も父として娘のことは気にかけていたのか、千姫が本多氏に嫁ぐ際には10万石と言う破格の化粧料を持参金代わりに与えている。また、本多氏はこの婚姻により、伊勢桑名藩から播磨姫路藩に移封されている。

忠刻との間には長男の幸千代、そして長女の勝姫が生まれて幸せだったが、幸千代は早世してしまう。この際、千姫は幸千代が病に倒れたのは秀頼の呪いだと思い込んであちこちに加持祈祷を依頼し、自らは秀頼に「どうか私を恨まないで下さい」と祈祷するほどだったという。しかし効果は無く、それどころか寛永3年(1626年)には夫の忠刻まで死去してしまう。同年には母の崇源院まで死去し、すっかり気落ちした千姫は一人娘の勝姫を連れて本多家を去り、江戸へ戻った。

江戸に戻った後は大御所となっていた父・秀忠の庇護を受け、娘の勝姫は秀忠の養女とされて池田光政に嫁いだ。寛永9年(1632年)に秀忠も死去し、同母弟で第3代将軍の徳川家光に庇護されて以後も江戸城で暮らした。家光の死後はその長男・家綱に庇護され、女性ながら将軍家の長老として大奥に絶大な影響力を保持した。

寛文6年(1666年)2月6日、江戸城竹橋御殿において死去した。70歳没。

千姫が登場する作品[編集]

※右端の氏名が千姫 役

映画
テレビドラマ
舞台作品
その他、情報番組・バラエティ番組

脚注[編集]

外部リンク[編集]