丹羽氏

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丹羽氏(にわし)とは、日本氏族である。織豊政権期に大名となり、江戸時代には外様大名として陸奥国二本松藩主となった。

概要[編集]

藤原氏藤原道隆の流れを汲む一族とされ、尾張国丹羽郡(現在の愛知県西北部)が丹羽姓の由来といわれる。家紋は丹羽直違。歴代当主の通字は「」。

この丹羽家の経歴が明らかになるのは、尾張国で頭角を現した織田信長の重臣として仕えた丹羽長秀の時である。長秀は信長の兄・織田信広の娘を信長の養女として正室に迎えるほど信任されており、多くの武功を立てた。長秀の嫡男・丹羽長重も信長の娘を正室に迎えるほど信長から信任を受けていた。天正10年(1582年)に信長が死去すると、長秀は羽柴秀吉に属して越前国に100万石を領する大大名として君臨する。しかし、長秀が死去すると後継者の長重は秀吉に狙い撃ちされ、領国を減らされた上に重臣まで奪われるほどの粛清を受けた。そして秀吉の死後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで長重は西軍に属して前田利長と敵対したため、戦後に徳川家康によって改易される。しかし、慶長8年(1603年)に赦免されて常陸国古渡藩1万石の藩主として復帰を遂げた。

以後、長重は陸奥国棚倉藩白河藩を経て石高も10万700石にまで上昇する。長重が死去し、子の丹羽光重が跡を継ぐと、丹羽家は寛永20年(1643年)に二本松藩に移封となり、以後はここを明治時代まで支配した。信長の重臣という名家の所以により、陣屋格だが江戸城内の詰間は大広間であった。

藩政に特に特記することはないが、幕末戊辰戦争においては奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦う。その結果、二本松少年隊の悲劇などを経て、二本松藩は新政府軍に屈服して5万石を減封されることになるが、存続は許された。

明治時代には子爵に列した。

なお、丹羽長秀の次男・丹羽長正も織豊政権期に越前国東郷城を領する大名であったが、関ヶ原の戦いで西軍に属したため、改易されている。

系譜[編集]