伊賀光季
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伊賀 光季(いが みつすえ、? - 承久3年5月15日(1221年6月6日))は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府の御家人。父は伊賀朝光で長男[1]。母は二階堂行政の娘[1]。姉妹に北条義時の継室・伊賀の方のほか、光宗、光資、光重、結城朝光室らの兄弟姉妹がいる。子に季村、光綱。
生涯[編集]
幼名は所太郎・伊賀太郎。官位は従五位下兵衛尉・左衛門尉・検非違使[1]。
伊賀の方が第2代執権・北条義時の継室だったことから義時の義兄として北条氏の一族同様に重用される。建暦2年(1212年)9月に常陸那珂西の地頭職に任命される。建保7年(1219年)2月に京都守護に任命されて上洛し、同じく京都守護に任命された大江親広と共に京都大番の武士の統率などを担当した。承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府を討幕するために挙兵を計画し、光季は上皇から味方になるよう誘われるが拒否したため、上皇が送り出した800人余りの軍勢に宿所である高辻京極家を襲撃されて息子の光綱と共に自殺することを余儀なくされた[1]。これが承久の乱の幕開けとなる事件だった。
死後、義時は義兄の忠誠を認めて生き残った息子の季村に家督と常陸の所領を相続させた[1]。