1247年
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1247年(せんにひゃくよんじゅうなな(しち)ねん)は、1200年代の47年目ことであり、日本の元号では寛元5年であったが2月28日に改元が行なわれて宝治元年となる。日本の天皇は後深草天皇である。鎌倉幕府の征夷大将軍は第5代将軍・藤原頼嗣である。執権は第5代執権・北条時頼である。宝治合戦が発生した年である。
日本の出来事[編集]
- 2月 - 将軍の藤原頼嗣が由比浜で犬追物を観覧する。
- 4月 - 安達景盛が三浦氏の罪状を執権の北条時頼に密訴する。幕府が後鳥羽上皇を鎌倉に奉祀する。
- 5月 - 三浦泰村の息子の駒石丸が北条時頼の養子となる。三浦氏一族が挙兵の準備をする。山門衆徒が奈良の僧徒と抗争する。
- 6月 - 北条時頼が三浦泰村を討伐し、泰村は敗走して法華堂において一族郎党500人余りと共に自殺する(宝治合戦)。北条時頼は三浦氏の残党を追討し、所領を没収する。
- 8月 - 幕府が鎌倉保奉行に浮浪人の追放を行なわせる。幕府が御家人の八朔の恒例贈物を禁止させる。法勝寺阿弥陀堂・清水坂・六波羅蜜寺門・建仁寺などが焼ける。北条時頼が道元を鎌倉に招聘する。
- 9月 - 将軍の命令により御家人に菊を献じ、幕府の北面庭中に植える。
- 10月 - 法隆寺で聖徳太子の三経義疏が開板する。
- 11月 - 鎌倉の寿福寺が焼ける。
- 12月 - 幕府が所務の横領には年紀法を適用しない旨を定める。幕府が大番役の交替期を3か月と定める。
- 月不明 - 随身庭騎絵巻・源平盛衰記が完成する。