1207年
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1207年(せんにひゃくなな(しち)ねん)は、1200年代の7年目ことであり、日本の元号では建永2年であったが10月25日に改元が行なわれて承元元年となる。日本の天皇は土御門天皇である。鎌倉幕府の征夷大将軍は第3代将軍・源実朝である。執権は第2代執権・北条義時である。
日本の出来事[編集]
- 1月 - 後鳥羽上皇が少壮殿上人18人を交代に殿上に伺候させる。
- 2月 - 法然が専修念仏を唱えたため、土佐に流罪にされる。
- 3月 - 幕府が地頭らに武蔵の荒れ地の開墾を命じる。
- 4月 - 九条兼実が死去(59歳)。伊予の天竺冠者が淫祠を建てて人民を惑わしたとして、京都に送られて収監される。
- 5月 - 今古珠玉集を撰ばせる。
- 6月 - 幕府が紀伊・和泉2か国は後鳥羽上皇の熊野御幸の駅家の施設をさせるため、守護職をやめる。後鳥羽上皇は犬追物を行なう。
- 7月 - 安芸の厳島神社が焼ける。このため安芸そのものを寄進して神社の造営を行なう。疱瘡が流行し、畿内や関東では大風雨による被害が相次ぐ。
- 8月 - 坂上明基が裁判至要抄を撰進する。
- 9月 - 伊勢平氏の残党が京都で捕らえられ、後に鎌倉で処刑される。
- 12月 - 後鳥羽上皇が院宣を下し、熊野三山検校を園城寺に付ける。