朝倉義景

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朝倉 義景(あさくら よしかげ、天文2年9月24日1533年10月12日) - 天正元年8月20日1573年9月16日))は、戦国時代越前戦国大名越前朝倉氏の第11代、最後の当主でもある。

家族[編集]

生涯[編集]

16歳の若さで朝倉家の当主となる。初期治世は一族の重鎮・朝倉宗滴の補佐を受けて無難に過ぎるも、天文24年(1555年9月8日に宗滴が死去すると次第に衰退が表面化する。一向一揆に苦しめられ、足利義昭亡命してきた際にも上洛の軍勢を起こせずに終わるなどその治世は次第に停滞し、その義昭を奉じて上洛した織田信長と後に対立し信長包囲網の一角を成す有力者となるが、好機を何度も見逃すなどその軍略は支離滅裂。最後は信長自ら率いる織田軍に越前に攻め込まれて一族や家臣の裏切りに遭い、自らは一族の朝倉景鏡に背かれて自殺を余儀なくされ、ここに朝倉家は戦国大名としては滅亡した。

人物[編集]

朝倉義景の凡庸[編集]

少年時代から、朝倉家に代々仕えてきた朝倉宗滴に頼りっぱなしであり、彼が亡くなると一向一揆軍に苦戦し、和平を結ばざるを得なくなった。政治には、家臣の朝倉景健や後に謀反を起こした朝倉景鏡に頼るなど、だらしない部分が露になっている。また何故か姉川の戦いでは、重臣の景健に総大将を任せた。

最期[編集]

上述のだらしなさが相まって、家臣との溝ができ始める。一乗谷織田信長に焼かれ、僧兵にも裏切られ、重臣であり従兄弟である景鏡の謀反で朝倉義景自害(一乗谷の戦い)。享年41。男子や、妻は全て殺されてこれにより、越前朝倉氏は滅んだ。従兄弟の景鏡はその後信長に仕える事になる。

脚注[編集]