大内義隆

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大内 義隆(おおうち よしたか、永正4年11月16日1507年12月19日) - 天文20年9月1日1551年9月30日))は、戦国時代戦国大名。官位は従二位。兵部卿。大宰大弐。大内氏の第31代当主。

父は大内義興で長男。母は大内氏重臣の内藤弘矩の娘・東向殿。幼名は亀童丸(きどうまる)。文学・学問を好み、明や朝鮮と交易を行う。父の死後、家督を相続して当主になる。少弐氏大友氏と戦って勢力を拡大し、父以来の西国最大の戦国大名、守護大名としての地位をさらに強固にし、西の京と呼ばれるまでになるが、尼子晴久との戦いで大敗して養嗣子の大内晴持を失うと国政への意欲を失う。以後、重臣の陶隆房内藤興盛との間に確執を生み、最終的には陶隆房に大寧寺の変と称されるクーデターを起こされて義隆と一族は自害し、大内氏は事実上滅亡した。

参考文献[編集]