平島記

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平島記(ひらじまき)とは、戦国時代史料である。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

著者は足利義種。成立年代は江戸時代前期の寛永6年(1629年)9月である。義種は足利義維の孫で、室町幕府の第14代将軍足利義栄の甥である。

別称は『平嶋記』、『平島家旧記』(ひらじまけきゅうき)、『平嶋伝来記』(ひらじまでんらいき)、『阿州足利平島伝来記』(あしゅうあしかがひらじまでんらいき)。

内容[編集]

全1巻。戦国時代から江戸時代初期における阿波の平島公方家歴代の家記である。本文の末尾に「義種が義次に書き与えたもの」とあるため、父から子に、つまり子孫のための書き置きということになる。

本文は8つの項目からなり、以下にそれを記す。

  • 1項目は義維から義種・義次父子に至る平島公方家の略記。
  • 2項目は義維の母が細川成之の娘であったことから、阿波細川家歴代の略伝。
  • 3項目は阿波三好家歴代の事績。
  • 4項目は平島公方家の由来。
  • 5項目は細川持隆三好実休に討たれたことで、義維が周防国に下向しようとした経緯。
  • 6項目は三好実休の戦死から足利義栄の死去、織田信長の上洛と足利義昭の将軍就任の経緯。
  • 7項目は阿波が三好から長宗我部元親へ、そして豊臣秀吉の平定により蜂須賀家政に与えられ、以後は国中長久に治ることまでの経緯。
  • 8項目は三好、長宗我部、蜂須賀など阿波の歴代太守らが、平島公方を「念頃」に遇してきたことを詳述している。

ただし、以下の点もある。

  • 義維が義稙の実子にされており、義稙に疎まれて阿波に下向したことになっている[注 1]
  • 足利義栄の死が、永禄9年(1566年)になっている[注 2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 義維は義稙の甥で養子。阿波に下向したのも、父の義澄の早世で、阿波細川氏を頼って亡命したものである。
  2. 実際には永禄11年(1568年)。

出典[編集]

参考文献[編集]