陶晴賢
陶 晴賢(すえ はるかた、大永元年(1521年) - 天文24年10月1日(1555年10月16日))は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。大寧寺の変を引き起こした下剋上の代表格の1人として知られ、主君の大内義隆とその一族を殺害して大内氏の実権を牛耳るも、毛利元就に敗れて自害した。
父は陶興房。母は右田弘詮の娘。兄弟に興昌、隆信ら。子に長房、貞明、鶴寿丸らがいるが、鶴寿丸に関しては孫説もある。
生涯[編集]
陶家は大内氏の重臣中の重臣で、周防国守護代を務めていた。父の興房は大内義興・大内義隆の2代にわたって仕えた重臣で、特に義隆の時代にはその家督相続や補佐に尽力して大内軍の総指揮を任されるほどの人物であった。
興房の次男として生まれた彼は、主君の義隆からの偏諱を受けて隆房(たかふさ)と称した。天文8年(1539年)、父の興房が死去。兄の興昌はこれより前に死去していたため、隆房が家督を相続した。
隆房は大内家の武の中心人物として働き、天文9年(1540年)に尼子晴久が毛利元就の居城である吉田郡山城を攻めた際には、援軍の総大将として大内軍を率いて後詰に駆け付け、元就と連携して尼子軍を大いに破った(吉田郡山城の戦い)。その後、天文11年(1542年)に今度は義隆自らが率いる大内軍に従軍して尼子晴久の居城・月山富田城を攻めるが、この第1次月山富田城の戦いで大内軍は大敗を喫し、義隆の養子である大内晴持や多くの将兵を失うことになった。以後、義隆は合戦を極度に嫌うようになり、それに従って武の中心人物であった隆房を大内家中枢から遠ざけるようになる。そして、義隆は当時としては極端すぎる文治政治を採用し、文官の中心人物である相良武任を重用。こうして大内家中は武断派の陶隆房と文治派の相良武任に分裂し、熾烈な権力闘争が開始されることになった。
この内争は一時的に隆房が有利な時期もあったが、主君の義隆が相良を支持していたことから結局は文治派が盛り返していた。また、隆房が謀反を起こすのではないかとする噂もたびたび大内家中では流れたという。重臣の冷泉隆豊は隆房の謀反を警戒し、義隆に隆房討伐を進言するが聞き入れられなかった。隆房は天文20年(1551年)頃になると義隆を見限り、義隆を廃してその猶子であり外甥である大友晴英を新当主に擁立しようと画策し、密かに晴英の兄・大友義鎮と秘密交渉を行う。そして、この密約がまとまると義隆は遂に謀反を決行した。隆房は敵対していた杉重矩を自軍に引き入れるなどの周到さで山口を襲撃。冷泉隆豊以外に味方する者もいなかった義隆を大寧寺に追い込み、遂に自害させた。さらに義隆の嫡男・大内義尊も殺害。大内一族や義隆を頼って亡命していた三条公頼ら公家らまで殺戮し、大内家を事実上滅亡に追い込んだ。
義隆を殺した後、隆房は大友義鎮との密約に従って晴英を新当主に擁立。そして、晴英を当主として敬い、忠誠を誓うことを内外に示すため、晴英からの偏諱を授かって晴賢(はるかた)と改名した。またこの後、晴英が足利義輝からの偏諱を得て大内義長と改名すると、晴賢は自分の嫡男に義長から偏諱を得て長房と名乗らせている。しかし、このように義長を立てたのはあくまで表向きだった。そもそも、偏諱で晴英と「英」ではなく「晴」という諱の上の字を得ること自体が異常なことであり、普通の君臣ではあり得ないものだった。晴賢はこの一例が示すように、義長を自らの傀儡として大内家の全権を掌握し、家中を思いのままに動かしたのである。
晴賢は全権を握るとまずやったのは、自分に逆らう者の誅殺であった。大寧寺の変の際に逃亡していた相良武任やそれを保護して義隆を支持していた杉興運らを殺害。さらに謀反に協力していた杉重矩も、変後は対立に転じてこれも殺害した。さらに大内家配下の国衆に対しては義隆以前の政治で対応したものの、義隆と違って厳しい軍役を課すなどしたことから不満を買うようになる。この晴賢のやり方に不満を抱いたのが、義隆の姉婿であった吉見正頼であり、正頼は石見国三本松城で晴賢に対して叛旗を翻した。
晴賢は直ちに義長を引き連れて討伐に向かうが、この大内軍主力が出陣した隙を突いてそれまで静観していた安芸国の毛利元就が叛旗を翻す。また同時期、晴賢を支えていた重臣・江良房栄が元就と内通しているという噂が流れ、それを信じた晴賢は房栄を殺害してしまった。
そして、天文24年(1555年)に晴賢は元就による虚報に騙されて主力を率いて厳島に上陸。折からの嵐で荒れている中で元就の奇襲にあって大内軍は壊滅した。晴賢は敗戦を悟ると自害しようとしたが、家臣に諫められて厳島から脱出しようと画策する。しかし、元就に協力した村上水軍によって退路を断たれて逃げ場を失い、遂に自害した。35歳没。
家督は長男の長房が継承したが、晴賢という大黒柱を失った大内家も陶家も急速に衰退。長房も晴賢が殺害した杉重矩の子・杉重輔の復讐によって討たれ、生き残っていた鶴寿丸も義長自害の際に殉死させられて、陶家は断絶した。