旧型客車

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仙台駅に停車中の旧型客車。

旧型客車(きゅうがたきゃくしゃ)とは20系客車登場以前に新製され、日本国有鉄道に在籍していた客車の総称である。

概要[編集]

日本国有鉄道では一般型客車と呼ばれ、旧型客車は鉄道ファンからの通称である。

  1. 他形式と混結できること
  2. 自動連結器を装備すること
  3. 客用扉手動であること

新型客車と異なる[1]
軽量客車である10系客車は含めないことがあるが、本稿では上記の3つの条件を満たすのでこれを含めて記述する。

沿革[編集]

明治時代-前史[編集]

1872年新橋駅横浜駅との間に日本で初めての鉄道が開業したとき、使用された蒸気機関車客車貨車はすべてイギリスから輸入したものだった。このうち客車は2軸車で、車輪軸受台枠、ネジ式連結器は鋼製、車体は木造で便所の設置はなかった。この頃の車両は太平洋戦争後しばらくも救援車 (鉄道車両)として機関区の片隅に留置されていた。やがて鉄道の建設が進み、距離が伸びて客車の需用が増えると、鋼製部品は輸入し、木造車体は国内で新製するようになった。さらに乗客数が増えるとアメリカ合衆国から便所付き2軸ボギー客車を輸入するようになった。

大正時代[編集]

明治時代末期、鉄道国有化により、各地の私鉄から様々な車両を引き継いだが、それらの管理に支障が出たため、国産標準化形式として標準化客車ホハ18000系客車が登場した。車体長が17000mm、車体幅が26000mmとなり、客用扉は車体の両側に設けられ、そのうちの片方に便所洗面所が設けられた。車内は中央通路の両側に座席を設けられ、二重屋根を採用して明かり取り窓を設けて、[2]以後の客車の標準的な形となった。2軸ボギー台車はイコライザー式のTR11である。寝台車食堂車も新製された。3等車はボックスシートだが、2等車と1等車はロングシート、車体は木造である。これにより、以前に製造した客車は雑型客車と呼ばれるようになった。

車両限界が拡大したこともあり、車体幅2800mmに拡大した車両が大型客車ナハ22000系客車である。この車両から2等車もシートピッチの拡大したボックスシートを採用した。1等車はまだロングシートである。車体はやはり木造である。この頃から、自動ブレーキ自動連結器蒸気暖房白熱灯の採用など、保安面と室内設備の向上が見られた。また、途中から台枠のトラス棒が廃止され、魚腹台枠となった。また、寝台車食堂車は車体長が20000mmとなった。

昭和初期[編集]

列車事故の際、木造客車では車体の粉砕による被害が大きいこと、木造車体の保守に多額の費用がかかることから、車体を鋼製にすることになった。造船技術を取り入れてできたのがオハ31系である。車体長や車体幅はナハ22000と同様だが、車体はリベットで組み立てられた鋼製になった。ただし、内装は木製のままである。

座席車の車体長も20000mmとした形式がスハ32系で長形車と呼ばれた。客用窓の幅は700mmとなり、3等車の定員は88名、シートピッチは1455mmとなった。初めて3等寝台車も登場し、これにより増備車は雨漏りと製造過程の煩雑さを嫌って丸屋根となった。[3]台車は軸バネ式TR23となった。

客用窓の幅を1000mmに広げた車両がオハ35系である。途中の増備はリベット組み立てから溶接となった。これが戦前客車の完成形となった。ただし、耐寒装備が必要な北海道向けに客用窓の狭いスハ32系の増備も並行して続けられた。

昭和戦時中[編集]

太平洋戦争末期、資材の枯渇と労働力の不足のため客車の増備が打ち切られた。内航海運の壊滅による貨物列車の増発のために旅客列車の削減が始まり、特別急行列車の運転が中止された。一等車寝台車食堂車の連結も中止され、三等車に改造される車両もあった。急行列車の本数も削減された。空襲による客車の被害も相次いだ。

戦後の混乱期[編集]

太平洋戦争による荒廃で保守もままならず、客車も酷使された。さらに進駐軍の客車の接収により客車不足となった。これにより空襲の被害に遭った客車と電車に必要最小限度の応急処置をして使用することになった。これが戦災復旧客車で70番台の形式が与えられた。これらは被害の大きさや担当を請け負った工場の力量により様々な形態が産まれた。世情が落ち着くとこれらは荷物車に格下げされ、さらに救援車に改造されて国鉄分割民営化直前まで在籍した。
1948年運輸省マイネ40形客車が新製され、やがてオハ35系客車の増備が再開された。この増備車は屋根の端部が折妻となる。また、台車を鋳鋼製ウイングバネTR40としたスハ42、スハフ41が登場した。一方、事故による木造客車の脆弱性が問題となり、これらすべてを廃車にして新製車に置き換えるのは莫大な費用がかかるため、木造客車の鋼体化改造を行うことになった。ナハ22000系客車台枠ホハ18000系客車の台枠を切り接ぎ、これに鋼製車体を載せた鋼体化客車オハ61系客車が登場し、60番台の形式が与えられた。これにより木造客車はすべて鋼体化改造されるか廃車になり、一部は救援車に改造され、明治初期の救援車は廃車になった。

混乱の収束期[編集]

オハ35系客車の改良型としてスハ43系客車が登場した。丸屋根の端部は完全な切妻となり、3等車のボックスシートのシートピッチは1470mmとなり、以後の急行列車用の車両の標準となった。台車はTR40の改良型のTR47となった。座席の改良、天井の白熱灯の2列化と中央部の扇風機取り付けによって居住性が大きく向上した。その翌年、スハ44が登場する。車体構造はスハ43系客車と同様だが、室内設備は一方向座席となり、特別急行列車に使用された。

10系客車の登場[編集]

客車は時代が下るごとに居住性が向上したが、同時に重くなった。スハ43系客車でも部分的に軽量化したオハ46オハフ45が登場していたが、輸送力向上のために抜本的な軽量化を行うことになった。

1956年に登場したナハ10系客車は従来の客車に比べて30%の軽量化を実現した。従来の客車が台枠の中心部に太い梁を設けていたのに対し、本形式はこれを廃した。車体の鋼板も薄いものにし、台車は新設計のTR52とした。室内設備も軽金属や合成樹脂を多用し、アルミサッシの採用、室内の内張からも木材を追放した。客用扉も新設計のものとした。これらの軽量化により連結両数が増え、輸送力増強に貢献した。しかし、あまりにも軽量化しすぎたため乗り心地が悪くなり、暖房の効きが悪くなった。

客車製造の中止の動きと改造[編集]

日本国有鉄道は、旅客車の新製を電車気動車に集中させる動力近代化を進めるため、客車は固定編成と特別優秀な客車にとどめ、それ以外の客車の製造を一旦中止した。ところが、高度経済成長の時代に入り、長距離急行列車の需要は増し、これに必要な客車が不足した。そこで普通列車の電車化、気動車化で余った客車を改造して急行列車に転用することになった。

3等車は運輸省スハ42形客車を軽量化、近代化した国鉄オハ36形客車。3等寝台車はスハネ30として登場し、戦時中に3等車オハ34に改造された車両を再び3等寝台車に再改造した2代目スハネ30。さらに、スハ32系客車[4]の台枠、台車を流用して車体を新製したオハネ17。2等車は鋼体化客車オハ61を、台車、室内設備をナロ10と同等のものとした、オロ61オロフ61。以上の形式が登場した。1961年には等級制度が改正され、3等が2等に、2等が1等に格上げされた。

北陸本線常磐線東北本線などで交流電化が進むと、客車暖房電気暖房にすることとなった[5]。客車側にジャンパ栓とヒーターを取り付ける工事を行い、当該車両には車両番号に2000をプラスした[6]。なお、EF62電気機関車は、北陸本線直通列車に対応して電気暖房用の電動発電機を新造時から備え、加えて、EF64電気機関車にも電気暖房に対応する設備を施工したので中央本線で運行する客車にも電気暖房に対応する工事を行った[7]

客荷分離により旅客列車から荷物車 (鉄道車両)郵便車 (鉄道車両)が外されて、緩急車が不足したために緩急車への改造が始まった。同時に陳腐化した室内設備を電車、気動車と同等にするために近代化改造を行った。具体的には、扇風機の取り付け、室内灯蛍光灯化、室内化粧板の取り付け、窓枠のアルミサッシ化を行った。この工事を行った車両は外部塗色を青15号とした[8]。さらに、荷物車の不足のため、スハ32系客車オハ35系客車を改造したマニ36が登場した。また、オハ31系客車の廃車が進み、一部は救援車に改造されて、木造客車の救援車はすべて廃車になった。さらに、非冷房車の食堂車は全廃となった。

昭和40年代以降[編集]

1等車の冷房化の要望が高まり、昭和43年10月1日日本国有鉄道ダイヤ改正に向けてナロ10スロ54オロ61オロフ61冷房化改造を受け、その他の1等車は、2等車格下げ[9]、荷物車改造、[10]事業用車への改造、廃車の運命をたどった。2等寝台車の冷房化改造も始まったが、対象になったのは10系寝台車で、スハネ30は対象にならず、廃車になった。また、安全性の観点から食堂車も半鋼製車は廃車となった。1969年には等級制度が廃止され、2等車が普通車に、1等車がグリーン車となった。旧型客車の廃車が進んだ一方、波動輸送向けに客車が見直され、大阪万博輸送対応で急行用の12系客車が新造されている。
山陽新幹線博多駅開業による1975年3月ダイヤ改正では、山陽本線夜行列車の大幅削減により10系客車が大量廃車され、翌年から20系客車の廃車も進行して、旧型客車も大きな影響を受けた。グリーン車スロ62スロフ62のかなりの数はお座敷客車スロ81、スロフ81に改造された。特に軽量化しすぎたために老朽化の著しい10系客車は廃車の速度は速かった。
1978年から久しぶりに一般型客車として自動扉を持つ国鉄50系客車が新製され、危険な手動式扉を持つ旧型客車は廃車されていったものの、昭和59年2月1日日本国有鉄道ダイヤ改正による荷物合理化で荷物車 (鉄道車両)郵便車 (鉄道車両)の連結が不要になると、旧型客車を使用する普通列車は、急行特急への格上げにより捻出された急行用車両で置き換えるようになった。また、特定地方交通線の廃止によって、使用されていた気動車が旧型客車を置き換えることもあった。
結局、山陽本線兵庫駅-和田岬駅を除き、昭和61年11月1日日本国有鉄道ダイヤ改正で旧型客車を使用した定期列車は日本国有鉄道の路線から姿を消した。

優等列車への運用[編集]

客車には走行に必要な機器がないので走行中も静寂であり、また、電化区間、非電化区間問わず走行できるので、長距離優等列車に使用されてきた。
しかし、戦後にモハ80系電車キハ10系気動車による準急行列車が走行中に客用扉が開かず、加速度が高いことから好評をもって迎え入れられ、準急行列車によるモハ80系電車後期型やキハ55系気動車が本格的に運用開始されると、中距離準急行列車から客車は撤退した。さらに151系電車80系気動車20系客車の登場により特別急行列車からも撤退した。一方、寝台車 (鉄道車両)の連結が必要な長距離急行列車には相変わらず旧型客車が使用され、特に、帰省や余暇活動によって臨時列車が多数運用される時期は急行列車用の客車が足りず、扇風機もなく、背もたれが板張りで、シートピッチが狭い鋼体化客車オハ61系客車まで使用された。
そこで波動用として1969年12系客車が登場した。これはやがて夜行急行列車にも使用されるようになる。初めて投入されたのは1973年の「きたぐに」で、10系寝台車とスロ54の混結だった。次に20系客車が急行列車に投入され、1976年に「銀河」から投入された。さらに、12系客車20系客車との混結運用が始まり、旧型客車の急行列車運用が狭まった。
そして東北新幹線上越新幹線開業の昭和57年11月15日日本国有鉄道ダイヤ改正で寝台特急の大量廃止と波動用客車列車の季節運用の廃止により14系客車に余剰が出て夜行急行列車に投入され、旧型客車は定期急行列車から運用を撤退した[11]

私鉄の旧型客車[編集]

現況[編集]

JR[編集]

現在はJR北海道にオハフ33形1両、スハ43系4両、
JR東日本にスハ43系5両、スハフ32形1両、オハニ36形1両、
残った車両も車令が65年以上[13]経ち、予断を許さない。

国鉄分割民営化により旧型客車は北海道旅客鉄道東日本旅客鉄道東海旅客鉄道西日本旅客鉄道に引き継がれ、このうち、西日本旅客鉄道山陽本線和田岬支線のみDE10牽引による定期運転を行った。しかし1990年キハ30系気動車に置き替えられた。東海旅客鉄道所属の車両も臨時列車で運行されていたが、引退した。

JR西日本にはマイテ49形が1両が在籍し、いずれもイベント用として使用されていたが、鉄道開業150年の2022年10月14日に除籍。その後は京都鉄道博物館で展示されている。

民鉄[編集]

大井川鐵道がSL牽引の「かわね路号」用途に所有している。

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その他[編集]

各地の博物館で静態保存されている車両もある。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. 荷物車 (鉄道車両)郵便車 (鉄道車両)では同一車体構造の車両と比較する。
  2. ダブルルーフと呼ばれた。
  3. シングルルーフと呼ばれる。
  4. オハ35系客車を改造した車両もある。
  5. 九州地域は山陽本線との乗り入れを考慮して、引き続き交流機関車に蒸気発生装置装備が設けられた。
  6. ただし、電気暖房対応の客車にも蒸気暖房菅を残して蒸気暖房に対応できるようにした。
  7. これにより機関車ボイラーを積む必要がなくなり、機関車の軽量化と保守の軽減ができた。
  8. すべての客車が近代化改造を受けたわけではない。
  9. オハ41系客車
  10. マニ36マニ37
  11. 北海道では14系客車(寝台車)の耐寒耐雪工事のために、翌年まで10系客車(寝台車)が14系客車(座席車)と混結して使用された。
  12. 紀勢本線直通のため、オハ46とほぼ同じ構造。
  13. 2021年1月時点。