江若鉄道

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江若鉄道(こうじゃくてつどう)は、かつて滋賀県大津市浜大津駅今津町近江今津駅を結んでいた民営鉄道を経営していた企業である。鉄道の廃止により江若交通と改称した。以下、江若鉄道線について記す。

概要[編集]

琵琶湖西部沿岸は、江戸時代に陣屋町であった大溝や明治時代に陸軍駐屯地が置かれた今津があったものの、閑静な農村、漁村が多く点在し、後に国道161号となる鯖街道の流通と鮒寿司が名物である以外は特に特筆する地域ではなかった。
官営鉄道が琵琶湖南岸を通るとこの地域は近代交通からさらに取り残されていった。政府による鉄道建設の予定はあったが全く手が就かれず、この沿線の大商人や大地主の資本によって建設されたのが江若鉄道であった。

路線の推移[編集]

建設[編集]

日付 駅間
1921年3月15日 三井寺下駅-叡山駅
1923年4月1日 叡山駅-雄琴駅
1923年12月1日 雄琴駅-堅田駅
1924年4月1日 堅田駅-和邇駅
1925年4月3日 新浜大津駅-三井寺下駅
1926年4月11日 和邇駅-近江木戸駅
1926年8月11日 近江木戸駅-雄松駅
1927年4月1日 雄松駅-北小松駅
1927年12月15日 北小松駅-大溝駅(後の高島町駅)
1929年6月1日 大溝駅-安曇駅
1931年1月1日 安曇駅-近江今津駅
機関区は新規開業時の起点駅だった三井寺下に置かれた。

太平洋戦争戦後までの経緯[編集]

近江今津駅までは建設されたが、その先の建設の資金が尽き、小浜線上中方面へは鉄道省によるバスが運行され、これが日本国有鉄道自動車局に引き継がれ、これが現在の西日本ジェイアールバス若江線である。
一方、昭和に入ると、浜大津 - 日吉間でほぼ並行する石山坂本線やバスとの競合で鉄道線の経営が思わしくなくなり、ガソリンカーの導入などで合理化を行った。
しかし日中戦争で軍需工場への人員動員により輸送量が増え、石油統制令によるガソリンカーの運行はできなくなるが、ライバルであるバス会社も運行がさらに難しくなり、鉄道線の輸送量が増加した。
さらに太平洋戦争では兵員輸送や機材の輸送による貨物輸送の増大によって鉄道線の経営が改善され、沿線のバス会社も陸運統制令で江若鉄道を核に統合された。

戦後の経緯[編集]

軍需工場への動員が消滅し、輸送量が急減すると、再び鉄道線の経営が悪化した。原因は炭鉱の荒廃とそれに続くストライキによる石炭価格の上昇であった。戦前の石油統制令によって蒸気機関車による輸送に頼っていた日本各地の鉄道会社は、大井川鉄道淡路交通のように増資に次ぐ増資によって電化した地方私鉄があったが、地域の電力事情に恵まれなかった江若鉄道はこれに乗り遅れ、鉄道線のディーゼル化を決定した。
なお、1947年から1965年まで国鉄大津貨物支線を共用で借り、膳所駅まで旅客列車を直通させた。

1960年代以降[編集]

高度成長期に入ると高等学校大学への進学率の向上、大津市京都市への通勤需要増加によって再び江若鉄道線の利用客が増加した。夏季の琵琶湖への遊泳客も戻ってきて、江若鉄道は国鉄で廃車になった国鉄キハ07系気動車オハ27を購入したほか、国鉄DD13ディーゼル機関車と同型の機関車も新製した。

鉄道事業撤退へ[編集]

湖西線の歴史」も参照

一方、1957年北陸本線木ノ本駅-敦賀駅で路線改良による近江塩津駅経由の新線が完成すると、滋賀県議会は国に対して江若鉄道線の国有化と近江今津駅-近江塩津駅の国鉄新線建設の要請を議決した。これにより1966年鉄道建設審議会は湖西線を工事路線に格上げした。
この頃、江若鉄道線も輸送量が減少し、湖西線と並行することもあり、日本国有鉄道に全線を買収する要請をした。
この件については、公共事業体発足で戦前のような国有並行線建設補償制度が失効したのと[注釈 1]、湖西線が高速幹線交通を使命としたため紆余曲折があったものの、全線の31%が日本鉄道建設公団による湖西線の建設に使用され、鉄道事業に関わっていた社員は国鉄と1961年に親会社となった京阪電気鉄道に引き継がれた。
鉄道線廃止と共に江若鉄道は、江若交通に社名変更して滋賀県湖西地域の京阪グループのバス専業社となった。

運用[編集]

1968年10月1日ダイヤ改正では、旅客列車は浜大津駅-近江今津駅に14往復が運転され、そのうち、朝の近江今津駅→浜大津駅と夕方の浜大津駅→近江今津駅は快速列車であった。

沿革[編集]

注釈[編集]

  1. 国鉄発足後の新線建設による私鉄線の路盤流用の前例は日南線の内海以北のみだった。

参考文献[編集]