国鉄モハ80系電車
国鉄モハ80系電車は、かつて日本国有鉄道が所有していた長距離用旧性能直流電車である。湘南電車と呼ばれた。
登場の背景[編集]
太平洋戦争前に多くの私鉄で運行距離100kmを越える列車が登場していた。東海道本線東京駅から沼津駅までは戦前に直流電化されていたが、運転される普通列車は電気機関車牽引の客車列車であった。東京駅での電気機関車の機回し省略のために登場したのが本形式である。
概要[編集]
客車列車置き換えのために登場したため、中間電動車方式を採用し、制御電動車は製造されなかった。屋根の車端部は切妻である。
客用扉は車体端に2か所設置され、乗降口と客室は仕切りが入れられた。客用窓は1m幅の一段上昇窓である。戸袋窓部分はロングシートだが、それ以外はクロスシートである。
塗色は湘南色である。ほぼ同一形式の固定編成で運転されていたが、稀に他形式との混結もあった。客用扉の幅は三等車は1000mmである。後の急行形車両の原型となった。長期に渡る製造によって改良された特に制御車前面はそれまでの半流非貫通形から正面二枚窓で傾斜を付けた湘南型となった。
1957年に登場した300番台は旧型国電の最後を飾る車両となった。台車が変更され、室内構造が硬質化粧板となり、車体が軽量構造となり、シルヘッダーを省略したノーシル・ノーヘッダとなり、シートピッチ、座席幅が国鉄ナハ10系客車と同等になり、優等列車の運用にも耐えられる車両となった。準急列車に使用された。
形式[編集]
サロ85[編集]
二等車の付随車である。室内は固定クロスシートで、定員は64名である。客用扉の幅は700mmである。便所、洗面所を有する。すべての車両がサハ85に改造された。
モハ80[編集]
三等車の中間電動車である。
クハ86[編集]
三等車の制御車である。便所を有する。一次車は正面3枚窓の半流型であったが、二次車からは正面2枚窓で傾斜した流線型となった。いわゆる湘南型である。
サハ87[編集]
三等車の付随車である。便所を有する。
クハ85[編集]
サハ87、サハ85から改造された二等車(旧三等車)の制御車である。運転台は湘南型ではなく、国鉄クモユニ82形電車と同様の高運転台、非貫通の切妻型である。
サハ85[編集]
サロ85から格下げされた普通付随車である。改造個所はほとんどない。便所、洗面所を有する。
クモユニ81[編集]
両運転台の郵便荷物合造車である。
クモニ83[編集]
クモユニ81から改造された荷物電車で、100番台が該当する。3両のみ存在した。この番台は新性能電車との連結営業運転は考慮されていない。
詳細は「国鉄クモニ83形電車」を参照
運用[編集]
東海道本線、山陽本線の普通列車での運転が中心であったが、室内設備をナハ10と同様にした300番台は準急列車にも使用された。また、上越線の急行列車にも使用され、アプト式健在時の信越本線横川以東の準急「軽井沢」にも運用された。
東海道本線の直流電化延伸によって各地に進出して当該箇所の旧型客車を置き換えた。伊東線にも進出して準急行列車の運行を行った。関西地方にも投入されたが、塗色は異なった。1956年の東海道本線全線直流電化によって全線で運行されるようになり、翌年には300番台を使用した準急行列車が運行開始した。
幹線区の優等列車の運用は後に国鉄153系電車、国鉄165系電車に置き換えられ、以後は普通列車の運用となったが、幹線区では徐々に近郊型の113系、115系に置き換えられた。
急行列車としての運用は1972年まで飯田線の急行「伊那」、身延線の急行「富士川」で、1978年まで篠ノ井線の急行「天竜」の1本に使用された。
最後は流電などの旧型国電の置き換えで、飯田線普通列車用に集約された。最低4両編成でしか組成できないこともあり、1983年に119系に置き換えられて引退したが、飯田線での80系の評判は良く、セミクロスシートで編成減車を伴い、かつ当時非冷房だった119系は新車にも関わらず不評で、80系撤退の抗議の意味か、塩ビシールで貼っただけの119系の白帯が剥がされる被害が続発し、当時の静鉄局の悩みの種となった。
その他[編集]
JR東海のハイブリッド気動車HC85の車番がクモハ85、クモロ85、モハ84と当形式と類似するが、たまたま同じ形式名はない。
また、一部はMT比を4M6Tや2M3Tとした経済編成を組んでいたが、起動加速度はキハ40もびっくりの1.25km/h/sだったと言われている。