日本の食堂車
日本の食堂車 (にほんのしょくどうしゃ)は、日本の食堂車の設備と歴史について記述する。
概要[編集]
車体構造や運用は諸外国とほぼ同様であるが日本国内の特徴について記す。
歴史[編集]
明治時代[編集]
日本で初めて本格的な食堂車を営業したのは瀬戸内海を運行する旅客船との競合関係にあった山陽鉄道であった。車両は欧米製の範をとり、調理室には石炭レンジ、氷冷蔵庫を設置し、食堂には枕木と垂直にテーブルが設置された。これは車体が狭いことも理由にあった。営業内容については予約制をとり、フランス料理のフルコースが給された。利用できるのは優等車両の乗客のみであった。後に官営鉄道も食堂車を投入したが、山陽鉄道と同等な設備、営業内容であった。車体長17000mm、車体幅は2600mmであった。
大正時代[編集]
食堂車を含む優等車両は車体長は20000mmに、車体幅が2800mmと広くなり、台車も3軸ボギーとなった。このため、座席配置も通路を挟んで、片側2人掛け、もう片側は4人掛けとなった。この頃に予約の不要な和食堂車が登場し、三等車の乗客も利用できるようになった。品書きにも和食が登場し、車内で味噌汁が味わえると好評であった。
昭和戦前[編集]
安全性の観点から車体は木製から鋼製となった。明治時代に製造された車体長17000mm、車体幅2600mm、2軸ボギーの食堂車は三等車や荷物車 (鉄道車両)に改造された。開放式便所から車内に汚水が入り込まないよう冷房車も登場した。しかし、日中戦争が始まり、輸送力増強の観点から食堂車の連結を取りやめる列車が現れ、提供される料理も代用食が増えていった。さらに太平洋戦争に入り、戦局が悪化すると食堂車の連結が全て廃止された。一部の食堂車は三等車に改造された。
昭和戦後から1950年代[編集]
三等車への改造をされずに保管していた食堂車は進駐軍に接収された。しばらくは日本人が乗車できる食堂車はなかったが、世の中が落ち着き、食堂車も順次進駐軍から返還されて日本人も利用できるようになった。しかし、輸送力増強が優先されたため、三等車との合造車が主体であった。新製された全室食堂車としては2軸ボギーの冷房車である国鉄マシ35形客車のみであった。後に完全電化としたカシ36が登場したが不具合が発生し、マシ35に改造された。1956年に広幅車体の国鉄オシ17形客車が登場して通路を挟んで4人掛けテーブルが並び、定員も40人となって以後の食堂車の基本スタイルとなった。ただし、厨房には氷冷蔵庫、石炭レンジが備え付けられていた。1958年には国鉄20系客車のナシ20が登場し、初の量産型完全電化食堂車となった。また、国鉄151系電車に立食形式のビュフェが登場した。
1960年代[編集]
1960年に国鉄80系気動車に国鉄キサシ80形気動車が登場した。