国鉄キハ55系気動車
国鉄キハ55系気動車 (こくてつきは55けいきどうしゃ)は日本国有鉄道が開発、製造した液体式ディーゼル動車 (気動車)である。なお、日本国有鉄道に「キハ55系」という系列はなく、現場や、鉄道ファンがキハ55と同一な車体構造をもつ車両をグループに束ねた便宜的な呼び方である。
概要[編集]
- 車体長-21000mm
- これは国鉄キハ20系気動車を除き後継の気動車すべてに共通する。
- 車体幅-2800mm
- これによって座席幅は客車並みとなった。
- 最高速度-95km/h
- 動力伝達方式-液体式
- 充電器-機関1機につき2台
- 出力-1kw
- 回路-直流24V
- 当初から準急行列車に使用することを想定した機関の出力と室内設備とを設けていた。
室内設備[編集]
客用扉は運転台すぐ後ろ(キロハ25を除く)と車体後部便所、洗面所のすぐ前の片側2か所にある。客用出入口と客室は壁で仕切られ、仕切り扉がある。客用窓は、3等車は当初は下段が一段上昇窓、上段はHゴムで固定した、いわゆるバス窓である。天井には白熱灯と扇風機が設置されている[1]。室内中間部には排気管が通っている。戸袋窓部はロングシートだが、それ以外は10系客車と同様なクロスシートが中央通路の両側にある。窓際には樹脂製の頭もたれが設置されている。車体後部には客用扉があり、その外側に便所、洗面所がある。客用扉は半自動式の片開き式扉が車体両側2か所に設けられた。
塗色[編集]
クリーム地に窓下に、三等車は赤色、二等車は青色の帯を入れたが、1960年代初頭からクリーム地に窓周りが朱色となった。一等車(旧二等車)は窓下に淡緑色の帯が入れられたが、全車が普通車(旧三等車、前二等車)に格下げされて帯も消された。なお、全面塗色は1960年代後半から朱色の部分が小さくなった。1970年代後半から朱色5号のいわゆる「首都圏色」 (朱色5号)に塗り替えられたが、全車には普及しなかった。
登場に至った背景[編集]
1953年に登場したキハ10系気動車は、閑散線区の近代化と合理化を達成し、蒸気機関車のように煤煙を出さず、加速力も大きいために準急行列車にも使用されるようになり、DMH17Bエンジンを2機搭載したキハ51によって関西本線の準急行「かすが」を置き替えるまでになった。しかし、キハ10系気動車の車体幅は2600mmと狭く、室内設備は、座席の肘掛けや扇風機がないなど、室内設備が貧弱であり、優等列車での運用に不適であった。これはディーゼルエンジンの重量が大きい上、出力が小さく、車体を軽く作る必要があったからである。そこで1956年に東武鉄道との競合関係にある日光線に投入する準急列車用として10系客車の軽量構造を取り入れて車体を軽量化し、その分、車体幅の拡幅と室内設備の向上を行って登場したのが本形式である。
新製された形式[編集]
- キハ55
- 床下にDMH17Bエンジン(160馬力)を2台有する3等内燃動車である。100番台はDMH17Cエンジン(180馬力)となったほか、一段上昇窓となった。後年、キニ56に改造された車両がある。
- キハ26
- 床下にDMH17Bエンジンを1台有する3等内燃動車である。他形式からの編入で番台ごとに分けられた。100番台はDMH17Cエンジンとなったほか、一段上昇窓となった。300番台はキロハ25から、400番台はキロ25から、600番台は400番台から改造された。後年、キユニ26、キニ26に改造された車両がある。
- 0番台は、竹下に13両、名古屋に7両、水戸に2両配置された。
- キロハ25
- 床下にDMH17Cエンジンを運転台側に1台有する2、3等合造車。便所、洗面所は運転台と前側客用出入口の間にある。初期車の3等側の客室窓はバス窓であったが、後期車は一段上昇窓であった。冷房化改造の対象から外れ、1969年までにキハ26 300に改造され、形式消滅した。
- キロ25
- 床下にDMH17Cエンジンを1台有する2等内燃動車である。台車は動台車はDT22A、付随台車はTR49Aである。気動車としては初めての全室2等車である。室内は回転クロスシートが並ぶ。冷房化改造の対象から外れ、1969年までにキハ26 400に改造され、形式消滅した。
- キハ60
- 従来のDMH17エンジンでは出力不足なので400馬力のDMF31HSEを搭載した試作車。1965年にDMH17エンジンに載せ変えられた。
- キロ60
- キハ60同様、400馬力のDMF31HSEを搭載した試作車。1962年にエンジンをDMH17エンジンに載せ替えられ、2等車キハ60に格下げされた。
改造によって登場した形式[編集]
- キユニ26
- 1973年から1980年にかけてキハ26を改造して25両が登場した郵便荷物合造内燃動車。前位側に郵便室、後位側に荷物室を設けた。0番台、100番台、300番台、400番台すべてから改造された。300番台は種車の違いによりバス窓、一段上昇窓があり、それ以外の車両も改造を行った工場によって様々な形態があった。例として、窓の埋め方の違いやタブレット保護版の有無、前面補強の有無や塗装の違い、北海道用としてタイフォンの移設とスノープラウの設置などがあった。
- 車両履歴
番号 | 種車番号 | 落成年月日 | 改造 | 落成配置 | 最終配置 | 廃車 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
キユニ26 1 | キハ26 301 | 1973.09.30 | 松任 | 松本 | 高松 | 1986.02.04 | |
キユニ26 2 | キハ26 302 | 1973.09.30 | 松任 | 松本 | 高松 | 1984.12.21 | |
キユニ26 3 | キハ26 303 | 1973.10.19 | 名古屋 | 浜田 | 大分 | 1984.04.20 | |
キユニ26 4 | キハ26 310 | 1973.09.30 | 多度津 | 浜田 | 岡山 | 1986.03.31 | |
キユニ26 5 | キハ26 312 | 1973.09.30 | 多度津 | 浜田 | 米子 | 1982.09.21 | |
キユニ26 6 | キハ26 305 | 1975.01.16 | 後藤 | 浜田 | 岡山 | 1984.07.13 | |
キユニ26 7 | キハ26 311 | 1975.02.20 | 後藤 | 鳥取 | 岡山 | 1984.07.13 | |
キユニ26 8 | キハ26 316 | 1974.10.23 | 後藤 | 浜田 | 岡山 | 1984.07.13 | |
キユニ26 9 | キハ26 19 | 1975.03.07 | 後藤 | 福知山 | 岡山 | 1985.03.04 | |
キユニ26 10 | キハ26 308 | 1975.01.23 | 多度津 | 高地 | 大分 | 1984.11.01 | |
キユニ26 11 | キハ26 309 | 1975.02.24 | 多度津 | 高地 | 高松 | 1984.09.19 | |
キユニ26 12 | キハ26 314 | 1974.12.10 | 多度津 | 高地 | 高松 | 1983.11.22 | |
キユニ26 13 | キハ26 315 | 1975.02.13 | 多度津 | 高地 | 高松 | 1984.10.04 | |
キユニ26 14 | キハ26 22 | 1976.02.18 | 苗穂 | 稚内 | 旭川 | 1984.05.14 | |
キユニ26 15 | キハ26 433 | 1976.11.07 | 幡生 | 七尾 | 七尾 | 1985.12.03 | |
キユニ26 16 | キハ26 459 | 1976.11.07 | 幡生 | 七尾 | 七尾 | 1985.12.03 | |
キユニ26 17 | キハ26 313 | 1977.03.25 | 多度津 | 高地 | 高松 | 1984.10.04 | |
キユニ26 18 | キハ26 169 | 1978.03.29 | 多度津 | 高松 | 高松 | 1986.02.10 | |
キユニ26 19 | キハ26 453 | 1977.11.07 | 幡生 | 大分 | 大分 | 1984.03.07 | |
キユニ26 20 | キハ26 451 | 1977 | 五稜郭 | 遠軽 | 北見 | 1984.06.12 | |
キユニ26 21 | キハ26 424 | 1978.09.14 | 苗穂 | 北見 | 北見 | 1984.06.12 | |
キユニ26 22 | キハ26 446 | 1978.10.07 | 幡生 | 高松 | 高松 | 1984.07.13 | |
キユニ26 23 | キハ26 1 | 1979.03.05 | 旭川 | 遠軽 | 北見 | 1986.03.31 | |
キユニ26 24 | キハ26 413 | 1980.03.31 | 旭川 | 稚内 | 深川 | 1984.03.10 | |
キユニ26 25 | キハ26 118 | 1980.10.04 | 旭川 | 北見 | 北見 | 1984.06.12 |
詳細は「国鉄キユニ26形気動車」を参照
- キニ26
- キハ26を改造して登場した荷物内燃動車。片側に両開きの大型荷物扉を2か所設けた。種車の違いにより様々な形態があった。
詳細は「国鉄キニ26形気動車」を参照
詳細は「国鉄キニ56形気動車」を参照
運用[編集]
1950年代[編集]
最初に投入されたのは日光線である。当時、東武鉄道との競合で、国鉄もキハ10系気動車を使用した快速列車を運転していたが、スピードアップと室内設備の向上のため本形式を使用した準急行「日光」の運転をはじめた。これにより東武鉄道がさらに新形式を投入していった。次に高山本線の準急行「ひだ」に投入した。さらに関西本線の「かすが」に投入。1959年の日光線直流電化により「日光」に157系電車が投入されると、車両は上野駅と仙台駅を結ぶ急行「みやぎの」に投入された。気動車の本格的な急行列車運用は初めてであった。
1960年代[編集]
全国各地に投入され、都市間高速輸送が行われた。本形式によって初めて優等列車が走った線区も多い。国鉄キハ58系気動車の投入後も準急行列車や急行列車の運用も行われたが、一等車は非リクライニングシート車で、冷房化改造から除外されたため、主要線区での運転から外されていった。それでもキロ格下げ車を中心に房総各線の直流電化までは両国駅まで乗り入れる運用があった。
1970年代以降[編集]
新幹線の延伸、幹線電化、急行列車そのものの減少により、普通列車の運用が増えて旧型客車の追放を行った。郵便荷物合造車や荷物車への改造も始まった。やがてキハ40系気動車の投入により廃車が始まり、特定地方交通線の廃止により活躍の場が狭まり、昭和61年11月1日日本国有鉄道ダイヤ改正により運用を離脱した。国鉄分割民営化前日の1987年3月31日に岡山のキハ26 238の廃車によって、新会社には引き継がれず、すべて形式消滅した。
沿革[編集]
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地方民鉄のキハ55系[編集]
その他[編集]
東武は国鉄の本系列投入に対抗し、猫ヒゲと通称された5700系を導入。1編成はカルダン駆動を導入した意欲作だったが、不調のため、吊りかけ駆動に改造された。