池田元助

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池田元助(岐阜県揖斐郡本郷村龍徳寺所蔵)

池田 元助(いけだ もとすけ、永禄2年(1559年)? - 天正12年4月9日1584年5月18日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将池田恒興の長男で輝政の兄。之助(ゆきすけ)ともいう[1]。後室の塩川長満の娘は織田信忠の妻と姉妹で、織田秀信は外甥にあたる。受領名は紀伊守。

生涯[編集]

信長の時代[編集]

父は池田恒興。母は善応院荒尾善次の娘)。弟に輝政・長吉長政。子に由之元信正室斎藤義龍の娘。継室は伊勢貞良の娘。継々室は塩川長満の娘。

父と共に織田信長に仕え、史料上において初陣と確認できるのは天正6年(1578年)12月の荒木村重が立て籠もる摂津有岡城攻めである。この時は父に従って共に倉橋郷の砦に入った(『信長公記』)。有岡城が落城するとなおも摂津に残って荒木元清の立て籠もる花隈城を攻撃し、これを抜く大功を立てて信長から名馬を与えられた(『池田氏家譜集成』『当代記』)。

天正9年(1581年)2月、信長の京都御馬揃えに輝政と共に参加し、有岡城の留守にとどまった父の名代的な役割を務めている(『士林証文』)。この頃から父とは別に独立した武将として軍勢を率いることが多くなり、11月には羽柴秀吉と協力して淡路を攻撃した。天正10年(1582年)2月からの武田征伐にも参加し、同年の夏に予定されていた信長率いる中国征伐でも元助に池田軍の総司令官として指揮を採るように信長から命令を下されているため(『信長公記』)、信長からかなり高い評価を受けていた可能性がある[2]

秀吉の時代と最期[編集]

天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長・信忠父子が横死すると、元助は父と共に羽柴秀吉に属して山崎の戦いに参加して明智光秀と戦った。このため、戦後に池田家は摂津南部の大坂尼崎兵庫などの要所を所領として与えられ、所領は12万石に加増された(『太閤記』)。恒興はこの際、居城を大坂城に移して元助に伊丹城を与えている。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に属し、戦後に恒興が美濃国主に封じられると、元助は岐阜城主に任命された。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでも羽柴秀吉に属して徳川家康織田信雄の連合軍と交戦する。羽柴方の三河中入れ作戦が決行されると元助は恒興・輝政・森長可堀秀政らと共に羽柴秀次を奉じて三河に攻め入ろうとするが、中入りを探知した家康の逆襲に遭い、恒興や長可と共に戦死を遂げた。享年に関しては26歳(『寛永伝』『池田氏家譜集成』)、22歳か23歳(『信長公記』)などと諸説があり不明[2]

当主である恒興と嫡子である元助が同時に戦死したため、池田家の家督はこの戦いを生き残った輝政により継承され、以後池田家は輝政の系統が宗家となった。

脚注[編集]

  1. 之助に関しては元助の誤写とされる説がある。
  2. a b 『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館2010年。P52

参考文献[編集]