伊賀国
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伊賀国(いがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。賀州の別称がある。おおよそ現在の三重県中西部に位置する。律令制では東海道に属し、畿内ではなかった。
歴史[編集]
天正伊賀の乱[編集]
天正伊賀の乱は伊賀国を舞台にした第一次天正伊賀の乱は織田軍と伊賀十二人衆との間で起きた1578年から1579年にかけての戦で、8,000の兵力を持つ多数でありながら、山岳戦で迎え撃った約1500の伊賀勢に大打撃を与えられ、伊賀衆が勝利した。織田信長は「言語道断曲事の次第に候」(信長公記)と激怒したと伝えられる。
第二次天正伊賀の乱は織田信雄を総大将にして約6万(5万とも4万ともいわれる)の兵で伊賀国に1581年に侵攻し、伊賀勢は9000の兵で籠城したが、伊賀勢は全滅に近い敗北であった。伊賀忍者のリーダー3人組の一人百地丹波は生き延び紀州に逃れた。講談や小説などで忍術の達人として登場する「'''百地三太夫'''」は百地丹波と同一人物との説がある。
幕藩体制[編集]
関ヶ原の戦い直後は筒井定次が伊賀を領有したが、改易後は藤堂家支配の安濃津藩の領地となった。廃藩置県で安濃津県を経て三重県の所属となった。
現状[編集]
現在の三重県伊賀市と名張市が該当する。近畿地方に属する。三重県の地域区分に用いられる。
テレビ放送などで東海地方に区分されることもあるが、大阪や京都との繋がりが強い。
地理[編集]
周辺の令制国は以下の通り。
海に面していない内陸国である。大部分が淀川支流、木津川の上流域に位置する。
紀伊山地北端に位置する盆地で、東縁の伊勢国との境は布引山地である。