津田信澄

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津田 信澄(つだ のぶずみ、? - 天正10年6月5日1582年6月24日))は、安土桃山時代武将織田家の一族で家臣近江大溝城主。摂津大坂城代。織田信長の甥[1]。父は信長の同母弟・信勝[1]。妻は明智光秀の娘[1]。兄弟に信糺織田信兼信直、女(神田之成室)。子に織田昌澄織田元信。幼名は坊丸[1]。通称は七兵衛[1]。名に関しては文書上で信重(のぶしげ)は確認できるが信澄の署名は確認できない[1]

生涯[編集]

弘治3年(1557)に父の信勝が伯父の信長に謀反を起こした罪で殺害された際、柴田勝家の下に預けられて養育された[1]永禄7年(1564年)に元服して津田姓を称した[2]

時期不明であるが、元は浅井長政家臣で信長に降伏していた磯野員昌の養嗣子となる(『浅井三代記』『丹羽家譜伝』『兼見卿記』)。ただ、信澄は早くから信長にその能力を認められていたようであり、磯野の養子関係や甥であることとは関係なく[1]、天正2年(1574年2月3日に信長の茶会に出席して御通役を務めている(『宗及記』)。3月27日東大寺蘭奢待切り取りの奉行にも任命されている(『信長公記』)。天正3年(1575年10月25日吉田兼和への接待役、取次役を務めており(『兼見卿記』)、信長の側近として重用されていたことがうかがえる[1]。なお、天正2年(1574年)に光秀の娘と結婚した[2]

天正3年(1575年)8月越前一向一揆討伐戦に参加し、柴田勝家や丹羽長秀と共に越前鳥羽城を落城させて500人から600人の一向一揆を斬り殺した(『信長公記』)。天正4年(1576年1月には丹波攻めを担当していた舅の光秀の支援に赴いている[1]。その後は従兄弟で信長の嫡子である信忠に従い、石山本願寺攻め、播磨攻めなどに出陣し、織田軍の遊撃部隊を率いる有力武将の一人となっている[1]。一方で信長からの重用も続き、信長の相撲大会の開催、津田宗及屋敷訪問での供奉など側近としての役割を務めている[1]。天正4年(1576年)には磯野から家督を譲られたかあるいは信長から強制的に隠居でもさせられたのかは不明であるが、突然として高島郡の政治に関する発給文書で信澄の名前が増加している[1]。磯野員昌は天正6年(1578年2月に信長の下から出奔しているため、この時点で完全に高島郡の支配権は信澄の手に移り、天正9年(1581年)には完全に信澄の下で判物が出されている[1]

天正7年(1579年5月27日安土宗論の際には信長の警固を担当する[1]。天正8年(1580年8月に石山本願寺が大坂から退去すると信澄は大坂に下向してその警備を務めた[3]。以後は信長の命令で大坂に常駐し、『耶蘇年報』では信澄を「大坂の司令官」と呼んだという。

天正9年(1581年2月28日京都御馬揃えでは従兄弟の信忠・信雄信孝、そして叔父の信包に続いて10騎を率いて行軍する(『信長公記』)。つまり信澄は織田一門の中では5番目の存在というわけである[3]。5番目といわれると低いように感じるが、織田一門は信長やその弟、息子、叔父に分家と一族が非常に多く、しかも信澄は父の信勝が信長と家督をめぐり争い対立した謀反人の係累であるから、この待遇はむしろ異例の厚遇と言えるものであった。

天正9年(1581年)5月10日槙尾寺に焼き討ちを行なう[3]9月には天正伊賀の乱での伊賀攻めに従軍する[3]。天正10年(1582年)3月武田征伐では信長に従って参加した(『信長公記』『兼見卿記』)。武田征伐後の5月、信長から長宗我部元親討伐のための四国征伐が発令され、信澄は丹羽長秀蜂屋頼隆と並ぶ四国攻めの副将に任命される(『信長公記』)。丹羽と蜂屋は信澄の父親と言えるほどの年長者であり、この2人と既に並ぶだけの地位を信澄は有していた事になる[3]。しかし同月には武田征伐の功労から徳川家康の安土・京都接待などもあり、四国攻めのために住吉に着陣していた信澄は信長から家康の接待を命じられて大坂に戻る事になる[3]

6月2日本能寺の変が起こって明智光秀のために信長が横死する。すると信澄に光秀に加担したという嫌疑がかけられた[3]。理由はやはり妻が光秀の娘というところが大きく[3]、また父親が信長にかつて反逆した経緯なども疑心暗鬼を募らせる原因になったものと思われる。しかし変後の信澄は光秀に加担するような動きを見せておらず[3]、また光秀も信澄に積極的に交信したりした形跡がほとんど無いため、これは濡れ衣ではないかと思われる。だが織田信孝・丹羽長秀らは信澄を疑い、6月5日に大坂城千貫櫓を攻められた信澄はあえなく戦死を遂げた[3]。信澄の首級は光秀に加担した謀反人としてのレッテルを貼られての町はずれにおいて梟首となった(『宗及記』『耶蘇年報』)。

享年に関しては諸説があるが、『勢州軍記』では25歳とされている。ただし享年28など異説も多い[2]

人物[編集]

信澄の評価・人柄は残された史料から大幅に分かれており、二重人格者であったのかと思えるほどである。「甚だ勇敢だが惨酷」(『耶蘇年報』)、「一段逸物也」(『多聞院日記』)とあるように、優秀な人物とされている一方で残忍な性格でもあると評している。この残忍さに関しては耶蘇年報によると2人の罪人を馬で噛み殺させた事を挙げている。伯父の信長に似た性格の持ち主で、残忍だが行動力にも富んでいた人物というところであろうか。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n o 『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館2010年。P120
  2. a b c 『戦国人名事典コンパクト版』 1990年、P519
  3. a b c d e f g h i j 『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館2010年。P121

参考文献[編集]

  • 谷口克広 『織田信長家臣人名辞典』 (第2版) 吉川弘文館2010年。ISBN 9784642014571
  • 『戦国人名事典コンパクト版』 阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月 ISBN 4-404-01752-9