猪子高就
ナビゲーションに移動
検索に移動
猪子 高就 いのこ たかなり | |||||||||||||||||||||
|
猪子 高就(いのこ たかなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。斎藤氏、次いで織田氏の家臣で、斎藤道三や織田信長の側近を務めた。
生涯[編集]
通称は兵助[1]。
当初は美濃の斎藤道三に仕え、『信長公記』首巻では天文22年(1553年)4月下旬に行なわれた正徳寺における道三と信長の会見で登場することで知られている。信長との会見を終えた道三が帰国する際、その帰途に高就に対して信長を高く評価し、やがて自分の子が信長に屈服するであろうと語ったことで知られている。
高就が信長に仕えた時期は不明だが[2]、恐らく道三が義龍に討たれた長良川の戦いの後であると推定される。『兼見卿記』では信長が足利義昭を奉じて上洛した後は、信長の側近として常に供奉していることや、奉書や副状の発給、検使を務めたことなどが記録されている。このことから、信長にかなり重用されて信任を受けていたと思われる。
天正4年(1576年)4月、石山本願寺の支城であった天王寺砦の受け取り、天正7年(1579年)4月に播磨三木表における検使役として派遣されている。天正8年(1580年)12月20日、信長の命令で福富秀勝らと共に信長の同盟者・徳川家康が攻めていた遠江高天神城の戦況検分を担当し、家康の慰問も行なっている。天正9年(1581年)9月8日、信長から知行の加増を受けている[2]。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変において、二条御所で信長の嫡男・信忠に殉じた。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 岡田正人 『織田信長総合事典』 雄山閣出版、1999年。 。