長谷川秀一

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
長谷川 秀一
はせがわ ひでかず
改名 竹・御竹(幼名)。藤五郎(通称)
戒名 霊巌院殿春嶽煕公大禅定門
性別
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生年月日 不詳
死没日 文禄2年(1593年)2月
死没地 朝鮮半島
死因 病死
肩書き 織田家・家臣→豊臣家・家臣
国籍 日本国旗.png日本
子供 秀弘?[1]、娘(堀秀治正室)
父:長谷川可竹:不詳
家族構成 秀一秀康

長谷川 秀一(はせがわ ひでかず)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏、次いで豊臣氏の家臣で、織田信長側近を務めた。

生涯[編集]

幼名は竹。通称は藤五郎[2]

幼少から信長の小姓として仕え、天正6年(1578年)6月に信長の側近衆・小姓衆と共に播磨神吉城攻めの検使を務めた。天正7年(1579年)5月の安土宗論伴天連屋敷の造営、安土城下の馬場築造の奉行などを務めている(『信長公記』)。信長から寵愛された側近の1人とされ、信長から「竹」と呼ばれたといわれる。

天正10年(1582年)6月の本能寺の変の際には、信長の命令で徳川家康の接待役として和泉に同行していた(『宇野主水日記』)ことから難を逃れ、信長の死を知ると家康と共に伊賀越えをして三河に逃れている。その後、京都に戻ると山崎の戦いで勝利した羽柴秀吉に仕えるようになった[2]。ただし一説では、三河までは赴かずに伊勢の白子で家康と別れたともいわれている。また、家康の接待役を担当した理由については、信長からの密命を受けて家康を殺害する目的があったとされている[3]

天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いでは秀吉方として参戦し、その功により近江肥田城主に任命される。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも秀吉方として2300の兵を率いて参加した[2]。天正13年(1585年)に越前を領していた丹羽長秀が死去し、後継者の長重が左遷されると、閏8月に秀吉より越前東郷城主として15万石を与えられ(『天正記』)、同時期に侍従に任官したことから羽柴東郷侍従と称されるようになる。天正15年(1587年)の九州征伐では1700の兵を率いて参加した[2]

天正16年(1588年)4月、後陽成天皇聚楽第行幸の際、秀吉の牛車に供奉し、秀吉が天皇に提出した起請文に他の22名の国持大名と共に署名している[2]

天正18年(1590年)の小田原征伐では3000の兵を率いて参加した。天正20年(1592年)、秀吉が開始した朝鮮出兵である文禄の役では5000の兵を率いて朝鮮半島に渡海するが[2]、その地で病死したという(『福岡市立博物館所蔵文書』)。Wikipediaでは文禄3年(1594年)に死去とされているが、後述の『中山家記』の秀康の任官からこれが誤りであり、Wikipediaの信頼性を物語る良き一例となっている。

秀一の遺骨は家臣が持ち帰り、旧領の近江肥田の崇徳寺に葬ったとされている[4]

中山家記』によると、家督と遺領は弟の秀康が継承して、文禄3年(1594年)1月に兄と同じように羽柴東郷侍従を称したという。

出自[編集]

甫庵信長記』の著者・小瀬甫庵の別の著書である『永禄以来事始』に以下のようにある。

「長谷川竹、後、藤五郎。是ハ備後守殿御種、密々之儀有之、御他界之時廿八」

つまり、秀一は織田信秀の子で、信秀が死去した時点で28歳だった、とある。これが事実ならば、信長の兄ということになる。しかし、信秀は42歳で死去しており、仮に秀一がその時に28歳なら、信秀が14歳の時に生まれたということになり、『甫庵信長記』の信頼性を考えても、これが事実とは考えにくい。

張州雑志』では、尾張の豪族・我孫子右京進の実子で、長谷川丹波守の養子になったとしている。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. あくまで一説である
  2. a b c d e f 岡田 1999, p. 270
  3. 岡田 1999, p. 394
  4. 岡田 1999, p. 271

参考文献[編集]