跡部昌勝
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跡部 昌勝(あとべ まさかつ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。跡部勝資の3男。
生涯[編集]
父は跡部勝資。兄に和田信業、跡部昌出らがいる。官途は父や兄・昌出と同じ大炊助。
天正10年(1582年)2月の織田信長・徳川家康による武田征伐の際に父・勝資と兄・昌出らが死去したため、家督を継承して官途も大炊助と称した。
その後は家康に仕え、天正11年(1583年)12月27日に家康の命令により、松平家忠の妹を妻に迎えている[1]。天正12年(1584年)1月1日に家忠と面会している[2]。
以後は『家忠日記』にその名前が散見されるようになり、家忠を招いて連歌会を催したりしている。家康が関東に移ると、上総国望陀郡において知行を与えられている。
『家忠日記』では、天正19年(1591年)8月24日に昌勝の娘が死去したことが記録されている。昌勝も文禄3年(1594年)6月4日に病に倒れたと記録されているが、さほど重いものではなかったとされるものの、その後の行方は不明である。