福富秀勝
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福富 秀勝(ふくとみ ひでかつ、? - 天正10年6月2日(1582年6月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。織田信長・織田信忠の側近。
生涯[編集]
通称は平左衛門尉。姓については資料により「福角」「福住」とあり、「ふくすみ」と呼ばれていた可能性がある[1]。
織田信長に仕え、元亀元年(1570年)5月3日に日乗上人とともに朝廷に対して信長の使者として白瓜を献上した。天正5年(1577年)8月に大和国の松永久秀が信長から離反した際、久秀から提出されていた人質の成敗を担当する奉行を務めた。天正8年(1580年)12月20日、信長の命令で猪子高就らと共に信長の同盟者・徳川家康が攻めていた遠江高天神城の戦況検分を担当し、家康の慰問も行なっている[2]。天正9年(1581年)9月、天正伊賀の乱では織田軍の大将の1人として黒田峠を越えて名張郡に侵攻した。天正10年(1582年)の武田征伐では、馬廻衆の着到を調べる奉行を務めている[1]。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で二条御所において、信長の嫡子・信忠に殉じた[1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 岡田正人 『織田信長総合事典』 雄山閣出版、1999年。 。