有岡城
有岡城(ありおかじょう)とは、現在の兵庫県伊丹市伊丹2丁目にかつて存在した日本の城である。別名を伊丹城(いたみじょう)という。織田信長に反乱を起こした荒木村重の居城として知られている。現在は国の史跡に指定されている。
概要[編集]
現在のJR伊丹駅の辺りに有岡城の本丸があったと見られている。
鎌倉時代にこの辺りを支配していた豪族の伊丹氏が文明4年(1472年)に伊丹但馬守の手によって築城され、さらに日本初となる天守閣を築き上げたと言われている[1]。なお、伊丹氏の支配下にあった頃は伊丹城と呼ばれていた。
永禄・天正年間の伊丹氏の当主・伊丹忠親は三好長慶・三好義継など畿内の実力者に従い、やがて三好氏を打倒した織田信長に従うが、天正2年(1574年)に荒木村重の攻撃を受けて落城し、信長は村重を摂津国主に任命して重用し、村重は有岡城を大改修して拡張し、さらに城の名を有岡城と改名した。
村重は信長の配下として各地を転戦して活躍するが、天正6年(1578年)10月になって足利義昭・石山本願寺・毛利輝元らと通じて信長に対して謀反を起こした(荒木村重の乱)。信長は村重の離反に動揺して当初は翻意を勧めたが、村重は応じずに反乱を続けたので信長は大軍を差し向ける。それでも1年間にわたって織田軍を苦しめたが、側近の中川清秀と高山重友が信長に降伏して窮地に陥り、村重は一族家臣を見捨てて有岡城から逃亡する。村重の背信と逃亡に信長は激怒し、婦女子122名を磔に、召使など残り510人余りを4軒の民家に押し込めた上で焼き殺し、さらに村重やその重臣の家族を大八車に縛り付けた上で京都市中を引き回して、その上で六条河原において斬首に処すという大虐殺を実行し、当時の人々を恐怖させたことで知られている。
その後、有岡城には信長の乳兄弟で重臣の池田恒興が入り、恒興が事実上の摂津国主として支配するようになる。天正10年(1582年)6月に本能寺の変が発生して信長が死去すると、池田は羽柴秀吉に従うようになり、天正11年(1583年)に池田が美濃国に移封されると同時に当地は羽柴秀吉の蔵入地として編入され、この時をもって有岡城は廃城となった。
現在は土塁の一部を利用したマウンドに忠魂碑があるのみで、城跡の面影はほとんど存在しない。また城跡近くに荒木村重を祀る古城山荒村寺に俳人・鬼貫の「古城や、いばらくろなる、螽斯」の句碑が存在する。
アクセス[編集]
脚注[編集]
外部リンク[編集]
- 伊丹市ウェブサイト 有岡城跡
- 伊丹市ウェブサイト フロイスも驚いた名城・伊丹城
- 惣構の北端「岸の砦」が置かれていた猪名野神社
- 有岡城(Web版尼崎地域史事典『apedia』)
- 有岡城跡/伊丹市公式ホームページ