松井田城

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松井田城(まついだじょう)とは、現在の群馬県安中市松井田町高梨子に存在した日本である。

概要[編集]

松井田市街の北側にある御殿山一帯にあった山城である。

鎌倉時代中期に鎌倉幕府の第5代執権北条時頼が諸国を巡回した際、松井田の地の利を見抜いて家臣の青砥藤綱(佐衛門)に縄張りさせ、築城して城名を青龍山霞ヶ城(せいりゅうざんかすみがじょう)と名付けたのがその始まりであるといわれている。

室町時代後期の長享元年(1487年)に越後新発田から安中忠親という武将が旧霞ヶ城を小屋城と名付けて自らの居城としたという。忠親の子・忠政上杉氏に属し、天文20年(1551年)に東山道信濃上野国境の押さえとして小屋城は改修され、この際に山城としての構えが整備された。永禄9年(1566年2月26日武田信玄上州箕輪城攻めに際し、忠政が立て籠もる小屋城を攻め立てた。忠政はわずか700人の城兵をもって善戦し、3度も城外出撃して武田軍を苦しめたが、兵力の多寡により遂に2月28日、忠政は自らの生命と引き換えに部下の助命を嘆願して自殺し、ここに安中氏の松井田城支配は終焉した。

武田信玄は松井田城に家臣の小宮山昌友を入れて守らせた。しかし天正10年(1582年3月11日織田信長武田征伐の命令により武田勝頼が自殺して甲斐武田氏が滅亡すると、この城には津田政秀が入った。しかし6月2日本能寺の変により織田信長・信忠父子が自殺すると、神流川の戦いで上野を任された滝川一益は西走し、その際に政秀も西に走ったため、この城は北条氏直の属城となり、新たに重臣の大道寺政繁が入ることになった。

大道寺政繁は天正11年(1583年)から松井田城の大改修工事を開始し、安中氏がかつて築いた小屋城を出丸とし、これを中心にして四方にのびる尾根上には切り落としや空堀などを幾重にもめぐらせ、数年を費やして堅固な城を築き上げた。その規模は小屋城の4倍近くに拡大され、この際に城名も正式に松井田城と改めたという。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐で松井田城は加賀前田利家、越後の上杉景勝、信濃の真田昌幸ら東山道方面軍3万5000人の大軍による攻撃を受け、大道寺政繁は必死に奮戦したが落城した。政繁は東山道方面軍の道案内を務め、そのために小田原征伐後に秀吉にその不忠を責められて切腹を命じられ、松井田城は廃城とされてしまった。

アクセス[編集]