伊藤博文
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伊藤博文(いとうひろぶみ、1841-1909)は、長州藩士、初代内閣総理大臣、初代枢密院議長、元老。初代立憲政友会総裁。
生涯[編集]
1841年、周防国熊毛郡束荷村(現在の山口県光市)の農家に生まれる。父・十蔵が下級藩士の養子となったため、萩城下に転居し、松下村塾で学ぶ。幕末は尊皇攘夷運動に携わり、1862年に塙忠宝を暗殺した。長州藩主毛利敬親によって、内密に英国留学。留学仲間は後に長州ファイブと称された。第一次長州征伐後、力士隊を率い、高杉晋作と共に政権中枢の保守俗論派を倒した。明治維新直後は、外国事務掛、初代兵庫県知事を務めた後、中央政界に入り岩倉使節団に副使として参加した。帰還後は、大久保利通や木戸孝允と共に内外の課題に対処し、岩倉具視死去後は明治政府の事実上の文官トップとなった。
1885年に初代内閣総理大臣に就任したが、1888年には辞任し、枢密院の初代議長となった。その後、初代韓国統監も歴任したが、1909年に中国[1]のハルビン駅で安重根に暗殺された。合計4回、内閣総理大臣を務め、1900年に政府・公益与党の立憲政友会を結成した。
人物像[編集]
- 金銭的に純真で、賄賂を受けることはなかった。
- 芸者好き、女好きだった。
- 明治天皇に信頼されていた。
- 「初代」の役職が多い。