大化の改新

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大化の改新(たいかのかいしん)は中大兄皇子、中臣鎌足らが蘇我氏を滅ぼした乙巳の変から始まる一連の政治改革である。

乙巳の変の経緯[編集]

皇極3年(644年)、中臣鎌子(鎌足)は上宮王家の滅亡に衝撃を受け、蘇我大臣家打倒の決意をする。中大兄皇子とは南淵請安先生の学堂で共に学んでいた。中臣鎌子は蘇我倉山田石川麻呂の長女を中大兄皇子の妃にして、味方に引き入れた。

皇極4年(645年)6月12日、クーデターを決行する。飛鳥板蓋宮における三韓の貢朝の儀式において蘇我倉山田石川麻呂が三韓の上表文を読む。鎌足は弓をとり陰に潜む。そのとき中大兄皇子は佐伯連子麻呂稚犬養連網田を従えて、蘇我入鹿を切った。古人大兄皇子は私邸に逃げ、「韓人鞍作臣を殺しつ」と叫んだ。

倭漢直の一族が蘇我大臣家に集結したが、高向臣国押の説得で退去した。6月13日、蘇我蝦夷は自宅で自刃し、蘇我氏は滅亡した。 同年6月14日、皇極女帝は弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位し、新政権が成立した。

このときが譲位の最初の例と言われるが、退位させられたとの説も有力である。

大化改新の政治[編集]

クーデター後、様々な新政策を実施し、元号を「大化」とした[1]

大化元年8月、東国国司を8グループに分けて任命した。人口土地の調査を開始した。武器を収公し、兵庫の管理を開始する。 男女の法を定め、公民制[2]と官僚制を定めた。

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  1. 日本書記に「皇極四年を改めて大化元年と為す」と記載。
  2. 「公地公民」とも言われるが、公地には中田薫などの異論がある