山口市
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山口市(やまぐちし)は、山口県に位置する市であり、分不相応にも同県の県庁所在地でもある。
概要[編集]
- 近年の傾向として、下関、周南(徳山)などに置かれていた企業の支店が山口市に統合されたり、JA山口県が山口市本店で発足したりと、行政を超えた変化が最近特に増えており、山口県における山口市の相対的な地位の上昇や県エリアの法人支店の山口市への集約化が、むしろ進んでいるといえる[注釈 1]。
- 市中心部を通過するJR山口線は萩経由の鉄路より早く開通しながら、経済面でのポジションが当時高くなかったことから本線とならなかった歴史がある。このため、日本の県庁所在地では珍しく、長らく行政機関の立地に特化した都市の典型とされた。もっとも、アメリカ等の外国では、州都が大都市の利害の外の小都市に置かれることは珍しいことではない。
- 北九州市が誕生したとき、市名の最有力候補に「西京市」というのがあったが、山口市はそれに抗議をする場面も見受けられた。他の都市の命名にまでイチャモンをつける、県庁所在地、歴史ある都市としての傲慢さの表れともいえる。加えて、対外的に「山口」=「西京」のイメージを更に定着させる作戦だろうか、山口市に県立高校を増設した際「山口(+方角)高校」ではなく「西京高校」という校名にしている。
加えて、市の中心駅である山口駅は肥前山口駅(開業時は山口駅、現在は江北駅に駅名改称)より歴史は浅く、他の駅名選定と同様に考えれば、周防山口駅と名乗るのが筋であるが、当時の鉄道省が県庁所在地に忖度した[注釈 2]こともあり、山口駅の名を奪い取っている。 - 市制施行も1934年で、同年に市制施行した浦和市と共に全国の県庁所在地では最も遅い。
- ただ、大内氏支配下で「西京」と呼ばれ、京などを除けば、経済面で大きな勢力であったように、ずっと行政と文化のみの都市ではない[注釈 3]。
- Wikipediaの山口市の記事については、Bsxなど、自分の意見に沿わない書き込みをする編集者は排除しているのが現状である。多角的な見地から百科事典にふさわしいといえる既述がなされているとはとても言いがたい。既述にだまされない十分なリテラシーを持つことが非常に重要である。
世界からの評価[編集]
2024年のアメリカのニューヨークタイムズ紙にて、世界で「2024年に行くべき52カ所」が発表され、日本からは、2023年の盛岡市に次ぎ、山口市が3番目として選ばれた。「おいでませ、山口へ」というフレーズが浮かんでくる。
NYタイムス記事では、「山口は『西の京』と呼ばれ、中でも国宝の瑠璃光寺の五重塔は、「完璧な庭園を備え、息をのむほどすばらしい」と評価している[1]。
また、「京都に比べて『観光公害』はかなり少ない」として紹介されているが、全国各地には衰退した多くの観光地があることを鑑みるとまだ突出感が否めない。
山口市本社の企業[編集]
- ファーストリテイリング - 発祥は宇部。
- テレビ山口
- 山口朝日放送
その他[編集]
- 山口市に置かれた気象官署は、千葉市と共に地方気象台でなく測候所だった。両市が属する県で地方気象台は港湾都市である下関と銚子に置かれ、外海の海上気象が重視されていたことを伺わせる。なお、2010年に山口、千葉とも有人の測候所から無人の特別地域気象観測所に移行している。
脚注[編集]
- 注釈
- ↑ これとは対照的なのが福島県で郡山市が県中央という地の利を活かして、経済の拠点性が高まりつつあり、いわき、郡山と福島の関係が、往時の下関、徳山と山口の関係に近づきつつある。
ただ、郡山市は福島県の地理的中心に位置しており、アクセスもしやすい。一方福島市は県の北に偏っているにもかかわらず、県立の公共施設や教育機関などが集中している。本来なら、北外れれの都市が、県の地理的中心都市と対等な規模となるのはよほどのことであるが、福島市が県庁所在地である事によって其れが容易に可能になっているという現実は直視する必要がある。最近のトピックとしては東京オリンピックの野球ソフトボールの会場は、原発の影響を強く受けそこから復活しつつあるエリアではなく、県庁所在地が会場になっていると言う状況になっている。復興五輪と言ってはいるが、結局事故で苦心したエリアではなく、県の恣意的な施策で福島市がいいとこ取りをした格好になっている。 - ↑ 同様に南樺太の樺太庁所在地の豊原駅に忖度して、1925年に東北本線の豊原駅が「下野豊原駅」に改称されている。
- ↑ ただ、三方を海に囲まれ海運という点でも、恵まれ臨海部に主要都市が点在し、臨海都市が主要都市のほとんどを占める本県の特徴を考えても、海無し県や臨海部に県庁所在地候補となる都市がない県ならともかく、山口市を単なる県政の中心である県庁所在地のみでなく、それ以上の役割を担う都市として、県内各都市のなかで本当に最適な場所であるのかどうかについてはいささか疑問である。もっとも、大内氏支配下当時は、江戸や大阪など後生の主役となる河口地帯ではなく、京都など内陸部の盆地に拠点を置くのが主流の時代であったが。
- 出典